モモ/ミヒャエル・エンデ

モモ

ミヒャエル・エンデの代表作です。
子供の頃に読まれた方も多いでしょう。
実は僕は、初めて読みました。

「エンデの遺言」で明らかにされているとおり、この物語は童話というフォーマットを利用して表現された現代資本経済の矛盾を追及したものです。
「時間泥棒」に奪われた時間によって、人々は以前のような平和な生活を捨て去ってしまいます。

物語では「時間」があたかも主題のような印象を与えますが、実はこの「時間が奪われる」ということ、それはイコール「貨幣」を追い求め、それに翻弄されている私たちの姿に他なりません。

子供向けのファンタジーという枠を遥かに越えて、歴史に残る名著と言えるでしょう。

「ゲド戦記」が、ファンタジーの世界を使って人間の生きる根源を問うた哲学的名著とするならば、「モモ」は経済的社会的名著と言えるでしょう。

追記08_08_04
「愛と経済のロゴス カイエ・ソバージュ3/中沢新一」の中に、以下の記述がありました。

デリケートで複雑な贈与

贈与が行われるたびに、贈られるモノといっしょに、それに引きずられるようにして、威信や信頼や愛情や友愛のような人格性に関わる生命的な力のあらわれが、量子的な「雲」となって、いっしょに運動していくのです。さらに贈与的経済の社会を生きていた人々は、モノが移動をおこすことによって、目に見えない「霊」の力が活性化され、人間の社会と自然を巻き込んで力強い流動をおこすのだと考えています。
 ところが交換では、贈与で働いていた人格性の力や霊力などのすべてが、抑圧され、排除され、切り落とされてしまいます。贈与の全課程を動かしていた複雑な階層性が、均質な価値量の流れていく水路のような単純な構造に、つくりかえられてしまう中から「貨幣」が出現して来ます。
 贈与の実践で起こることを、いちいち合理化して理解することは不可能です。計算不能な人格性の力や霊力の動きなどが、そこに深い関与をおこなっていたからです。贈与の行為を上手におこなうためには、複雑な階層で違う運動をおこなっている力について、相当に緻密な認識が出来ていなければなりませんから、贈与はとても面倒くさい、デリケートな行為であると考えることが出来ます。
 近代の社会はそこで、このようにデリケートで複雑な贈与の原理にしたがっている社会の全組織を、簡単で合理的な交換の原理にもとづくものに改造しようと、試みてきました。
 商品の交換がおこなわれる「市場」と呼ばれる場所は、近代社会が形成されるよりもずっと昔から存在していました。その頃は、社会をまとめる重要な機能をになっていたのは贈与のシステムでしたから、それと併存する形で商品を交換する場所が、特別に設けられていたのです。現在のように市場は、社会の全域に広がってはいませんでしたが、交換の原理は贈与の原理といっしょになって働いていた訳です。

p48-49

モモは、みんなと仲良く暮らしていた頃、モモを好きな人たちによって、住居や食べ物を与えられていました。
それはまさしく「贈与」であったわけです。
代わりにモモは、みんなに安心を与えました。
ところがその「贈与」が優位な生活を捨て、「貨幣」を飽くことなく求める「交換」優位のシステムの中に時間泥棒たちによって人々は組み込まれてしまいます。

「モモ」はこのように読み解くことも出来ます。

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