学ぶということ。

人生は学び続けること、とよく言われます。
学ぶとは一体どういうことでしょうか?

一般的に学ぶ場といえば、学校です。
学校では教科書に沿って、様々な科目を先生から教わります。
ここでは「なぜ」「何のために」勉強するのでしょうか?

実際、その疑問を具体的に教えてくれる大人(教師や親)はあまり居ないのではないでしょうか。
少なくとも僕の周りはそうでした。

小学校はともかく、中学校にでもなれば、より「良い」高校への進学を念頭に授業は進められるはずです。
高校に進学すれば、更により「良い」大学へ、と。
より「良い」とは、一体何が良いのでしょう?

それは「学歴」であり、その学歴が将来の「収入」を裏付けてくれる、と社会が考えている、ということです。
つまり「効率的にお金を稼ぐために」「より良い学歴」を得るために、学校に行き勉強しているのです。

果たしてそれが本来の学問の目的なのでしょうか。
子供達はどうして学校の勉強が嫌いなのでしょうか。
勉強する目的はお金を稼ぐことではない、ということを子供達(昔の自分たちを振り返ってみましょう)は無意識に感じ取っていやしないでしょうか。

僕が考える「学び」とは、「この世界とは一体何なのか。自分とは一体何なのか」ということを探ること、です。

文学は文学という言語で、数学は数学という言語で、社会は社会、美術は美術、体育は体育という言語でそれぞれ「世界のある一面を表している」のです。
それらを理解分析した上で自分の中で統合し、「ああ、世界とはこういうものなのだ。」という地平に立ってはじめて、「どう生きていくべきか」を考えられるのではないでしょうか。

そして自分とは何者であり、どういう特性を持っているのかを知ること。
それらを抜きにして、職業など決められるはずもない。
「お金を稼ぐこと」はあくまで手段、二次的三次的なものであり、人生の目的ではありません。
にも関わらず、成長期の大事な時間を「お金を稼ぐこと」に向けて犠牲にしているのが、今の学校教育ではないでしょうか。

肝心要の、「何のために生きているのか」をいうことを誰も教えてくれないし、そのことを自分で考える時間さえ奪われているのです。
そりゃ、嫌いになるでしょう。学校に行っても、面白くないでしょう。

「自分たちもそうやってきた」という理屈は通じません。
だから、「教えることができない」のですから。
だから、大人になりきれない、「子どもな大人」ばかりになるのではないでしょうか。

学ぶことに必要なのは謙虚さです。
相手を敬うことです。
敬うことなくては、学ぶ対象とのパイプはできません。パイプがなければ、永久に「学ぶべきこと」を受け取ることはないでしょう。

「先生」とは読んで字のごとく、「先に生まれたもの」の意です。
もちろん学ぶ対象が目下の場合もあるでしょうが、概ね目上のことを指すでしょう。
しかし、先に生まれたからといって、長く生きているからといって、「学ぶこと」を怠っていれば当然学ぶ対象とはなり得ませんし、「先生」にもなることは出来ないでしょう。
「先に生まれる」という意味は、その道の先達、先輩と捉えるべきであり、目上として振る舞う、ということは「人生においての先輩」ということです。当たり前、ですよね。

今、家庭において学校において、大人が敬われなくなっているのは私たちが「学ぶことを怠ってきた」からではないでしょうか。
子供達が私たちを「人生においての先輩」と思っていないからでは?

ちなみに、人のことを特に理由もなく「先生」と呼んだり呼ばせたりする人を、僕は信用しないことにしています。
僕がほぼ無条件に先生と呼ぶ職業は、教師と医者だけです。

少し話が飛びますが、「友達のような親と子の関係、教師と生徒の関係」が望ましいと考える方々がいます。
僕はその考えに一理有るとは思いつつ、賛成はしかねます。
なぜなら、パイプが出来ないからです。
パイプがあると無いとでは、学ぶスピードはまったく違ってきます。

僕は陶芸家になるために、師匠に弟子入りしました。住み込みで、基本的にお給料はありませんでした(誤解の無いようにお断りしておきますが、生活に困らない様々な手当てをいただきましたし、有形無形問わずお金以上のものをいただいたと、先生には感謝しています)。
弟子は、たとえ黒いカラスであっても師匠が「白い」と言えばそれは白としなければいけませんでした。

しかし、どうして「黒い」ものを「白い」と言えるでしょうか?

そこにはなんらかの理由があるはずです。
そこから弟子の学びは、始まります。
そうすると、常識的には「黒い」ものが「白い」ものになってくるのです。
いや、正確にいえば見方を変えることによって、黒と思っていたものが実は白くもなりうる、ということに気づくのです。

逆に、どう考えても、黒は黒であって白では無い、こともあります。
その矛盾を抱えたまま弟子生活を送ることは苦しいことではありましたが、しかしそれこそ、独立した時に役にたったのです。
その矛盾を突き詰め、自分はこう考え、こうする、という道を切り開くことで、「師匠を超える」足がかりを作ることができるのです(いまだ果たしたとは言えませんが)。

ろくろなどの技術を学ぶ時にも、時には昨日言ったことと違うことを言われたりします。
しかし、それも練習を重ねるにつれ、師匠が違う表現をしたに過ぎないことに気付けるのです。
例えれば、山頂は一つだけれど、そこに至る道は幾つもある、というようなことです。
そのことに気づくには、それ相応の時間と努力が必要なのです。

それも師匠とのパイプがあればこそ、です。
技術的なことは、極論すれば練習さえすれば誰でも習得できます。諦めなければ。
しかし、それをどれだけ短時間にできるかは、それを職業として考えた時、プロになる覚悟でやる時には重要なことになります。

敬うことなくして、謙虚さ無くして学ぶことは本当に難しいのです。

まずは学ぶべき対象(人や作品などの物の場合、時には自然そのものの場合もあるでしょう)に意識を向ける。そのことでチャンネルが開く、と言えばいいでしょうか。
そして敬う、リスペクトすることでパイプが繋がれるわけです。

例えば、誰かから自分の行為や発言を批判された時、それを単なる否定と捉えるのか、意見として捉えるのかでは、その後の自分の人生における「経験値」の差に大きな違いが生じます。

「批判」と「否定」は違います。
批判は、相手を理解していなければできませんが、否定は理解していないからこそ、否定になるのです。
「否定的な批判」には、必ず「肯定的な示唆」があるはずです。
そこを読み取るためにパイプが必要なのです。

「経験値」を蓄え広げる行為(思考)こそ、「大人になる」という言葉の本質です。「学ぶこと」の第一歩です。

脳科学者の茂木健一郎さん曰く、
「批判は、時に、相手の本質を見抜く力にもなりうる。その時、批判は、相手本人、あるいは相手の賛同者たちも思いつかないような、本質に至る道となるのだ。」

「単純な擁護者は、案外その主張の存立する基盤に鈍感である。一方、批判者は、基盤の危うさを見抜き、場合によっては新分野の萌芽ともなる。」

以前のツイートより。
『人が成長しようと思うならば、「曇りなき眼で」世界を視ようとすることだ。人の話をまずは素直に聞くことだ。分からないものは、否定も肯定もせず、とりあえず保留することだ。自分自身を見つめ、考えることだ。つまらないプライドは捨てることだ。当たり前じゃん。』

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