「疲れすぎて眠れぬ夜のために/内田樹」

久しぶりに内田樹さんの「疲れすぎて眠れぬ夜のために」を読みました。

どういう本かと言うと、タイトルが表すように「自分の信じて来た道をひたすら頑張って進んで来てみたけれど、なんだか最近体も心も調子が良くない。どして?」という人のために書かれた本です(笑) ホントに。
ある意味、いわゆる常識とはちょっと違う視点を与えてくれます。 かといって非常識なことを言っている訳ではありません。ちょっと常識を疑ってみる習慣がある人にとっては、なるほどうんうんそうそうと納得のいくものです。
しかし、それが無い人にとってはチンプンカンプンかもしれません。 そういう人が、多分「疲れすぎて眠れない夜」を迎えていることと思います。

例えば、「身体感覚を蘇らせる」という章があります。 昔の日本人は「恥の文化」と言われていました。それはいろんな身分があったのですが、それぞれその「型」があり、その「型」を身につけることが重要視されていた、というのです。
侍には侍の、商人には商人の、町娘には町娘の、百姓には百姓の「型」がありました。 その「型」に自分の行動や振る舞いを落とし込むことに寄って、それぞれになっていく、というものです。 最近では「個性」というものが尊ばれる傾向がありますが、この「型」はそれと逆のように感じます。
ところがそこには重要な意味があり、その「型」を常に意識すること、すなわち「自分の利己的な欲望を制御して、社会規範を遵守して生きる人間」つまり「市民」を創出する機能があった、というのです。(身分制度をはじめとする江戸時代の封建制を肯定している訳ではないので誤解なきように)
よく剣術の達人は「背中に目があった」と言われますね。 あれはこの「型」を自分の周り360度体現した結果であり、実は剣術の達人に限ったものではなかったものかもしれませんね。 「背中から見たら、自分はどういう風に見えるだろうか」という意識の持ち方が大事だ、と。

で、この「センサー」が現代人では極端に鈍っている、と内田さんは言います。
僕もそう思います。

2001年に250人の死傷者を出した「明石の歩道橋事故」が例としてあげられています。 危険を感じるセンサーが鈍っていたからこその大惨事ではないのか。
内田さんは言います。 この事件で教えてくれる最大の教訓は、現代人は「群れと行動を共にする」ことの戦略上の有利さと安全性を過大評価する傾向にある、と。

直近の例としては「原発」があります。
センサーがきちんと働いている人たちは、「Fukushima」以前からなんだかヤバいぞ、と訴えてきました。 実際に原発事故が起きると、ようやく少なくない人たちのセンサーに届き始めました。
ところが、いまだにセンサーが働かない人たちも大勢居ます。
ここで放射能の安全性の是非は言いません。 ただはっきりと分かっていることは、「誰にもよく分からない」ということです。
よく分からないことはとりあえず怖がっておく,というのは生物として基本的な危機管理能力です。
よくパニック映画で、危機的状況から脱出しようとする主人公たちを、根拠も無く「大丈夫、大丈夫」と余計危険にさらしてしまうキャラが登場しますね。お約束です。
映画を見る私たちは、このキャラの「愚かさ」はよく理解できますが(だからハラハラドキドキする)、いざ自分のこととなると客観的に観察できないようです。
これが「センサー(身体感覚)が鈍っている」いや、もはや「動いていない」状態です。 これは人間として危機的状態と言えるでしょう。だって、生存能力が絶望的に低下している、ということですから。

これが現代の日本人の姿なのです。

僕は10代の頃からひとりで山に登ったり、旅に出たりを繰り返してきました。 それはこの「センサー」を鈍らせないため、でした。それは中年になった今でも変わりません。 (個人的には、このセンサーが一番鋭かったのは小学校の低学年までです。その代わり、智慧を獲得してきましたが)

みんなはそっちに向かっているけどなんだかヤバいぞ、という感覚を途切れさせないことこそ、本当の意味での危機管理だと思います。
それはお金では決して買えないものなのです(^_-)

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