お金は「エネルギー」なのか?

よくFacebookで、「1円でも稼いで多くを世の中のために廻したい。だから自分の事業の応援をしてほしい」という記事が流れて来ます。

この方々の志そのものは、素晴らしいと思います。全くその通りだと思います。
しかし、そこに落とし穴もあるように思います。

よく「お金はエネルギーである」と言う捉え方を耳にします。
ググってみると、それこそ大量の記事が検索されて来ます。
いくつか読んでみると、共通するのは

・「お金の罪悪感」を手放すこと
・「お金」は取引の結果やり取りされるものであるから、そこには必ずお互いの「意識」が乗っている。それが「エネルギー」であると言われる所以
・これらは「金運」を上げるために必要である

というような感じです。
一見、どこにも間違いがないように思えます。

一つ一つ、検討して行ってみましょう。

「お金の罪悪感」
お金を稼ぐことに罪悪感を感じる方もおられるかと思います。人より稼げば、誰かが貧乏になるのではないか?
これはその通りですので、罪悪感を感じることは一概に間違いではありません。でも、稼いだ分、貯め込まずに廻せばよい。
そもそも、「稼ぐこと」とは「集めること」であるわけですから、わざわざ「集めたものを廻す」ことは人の心理として、とても難しいものです。
でも、それ以外にも罪悪感を感じている部分はありませんか?
「お金を稼ぐこと自体」、自分の欲望を肥大化させることでもあります。結局それに捉われることで、人を不幸にするのではなく自分を不幸にするのではありませんか?

「取引はお互いのエネルギーの交換である、故にお金はエネルギーである」
ここで僕がよく主張している言葉に「経済とはコミュニケーションである」というものがあります。
まさしくこれと同じことを意味しています。
しかし、微妙な違いもあります。

例えば、僕が主催している地域通貨勉強会は、基本無料で行なっています。
では、ここでは経済は発生していないのでしょうか?
いいえ。そんなことはありません。
実際のお金のやり取りこそないものの、確実に「エネルギーの交換」は行なわれており、「コミュニケーション」も活発になされています。決して、一方通行なものではありません。
そこにかける僕の時間と労力も決して少なくはありませんが、どうして無料で出来るのでしょうか。
そこにこそ、「増えるお金の呪縛」から解放されるヒントがあると考えています。

無料であるからと言って、無責任には出来ません。
実は先日の勉強会で、あろう事か事前に告知した日時に留守をしてしまい、せっかく来て頂いた数名の方にご迷惑をお掛けしてしまいました。
「無料なんだから、責任はない」わけではありません。人としての信用を損なってしまったのです。
言うまでもなく、「信用」はこの世で「お金では買えないもの」の代表的なものです。
築き上げるには多くの時間と、多くのコミュニケーションが必要ですが、壊れる時は一瞬で壊れてしまいます。
つまり、「信用」「信頼」はお金よりも価値のあるものであると言えるのではないでしょうか。
僕が勉強会を無料で行うのは、このお金よりも価値のある信頼を創り上げるため、に他なりません。
逆に言えば、有料にしてしまうことで、この信頼を得る機会を逃してしまうことにもなります。
(もちろん、有料にしてもある程度の信頼を得ることはできます)

お前は霞でも食べて行くつもりか?
いえいえ、そんなつもりは毛頭ありませんよ(^_-)
ただ、その場でその結果を受け取らないだけの話です。(もちろん、本業は別にありますけど)

本来、経済に必ずしも「お金」が介在する必要はないのです。

「金運」は必要か?
あるに越したことはありませんが、人生に必要なのは「お金」ではない、という前提を忘れてはなりません。

結局、「なぜお金の話を問題にしなければならないのか」、ということが大事なのです。
「増えるお金」によって、私たちは「お金を増やすこと、集める」ことに人生の大半を消費し、捉われており、そのこと自体が問題である、と言うことです。
そのことが「腑に落ちた」後に、「お金はエネルギーである」という話がくる訳で、そうでなければ何の意味もありません。

「お金はエネルギー=私たちの意識」であるならば、「お金を集める」ことに捉われている以上、それは私たちの欲望に他なりません。
そして私たちはその肥大化し続ける欲望によって、自分たちの首を絞めているのです。

まとめると、

お金は単なる道具である。
経済を円滑に進める仲立ちをしているにすぎない。
経済はコミュニケーションによって発生する。それはエネルギーの交換でもある。
健全な経済は、健全なコミュニケーションによって成り立ち、そこには健全な信頼関係が不可欠である。
お金によって、それらが損なわれることがあってはならない。
それらが損なわれる場合とはいかなる場合か?
それは、社会の信頼関係が崩壊し、互いを思いやることがなくなり、健全なコミュニケーションが成り立たない時である。

それは私たちの意識の問題である。
本来お金に善悪は無い。が、私たちが「お金の本質」を理解していない状態では、自然には増加してしまう私たちの欲望を刺激する結果を招く。そしてそれが私たちの首を絞めることになる。
そして、そのベクトルを持つ貨幣システムは改善すればよい。

ということです。

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