茂木健一郎さんのツイート「世界の対立構造の変容」について思うこと

ところが、現代の対立の多くは、資本主義対共産主義のイデオロギー対立にくらべると、幼稚であり、知的負荷がひくい。世界は、むしろ、稚拙で粗野な思想対立にこそ、支配され始めているように思われる。昔ならば「色物」だった政治家が、選挙で勝利する事例が増えてきている。

茂木さんは技術文明の成熟と、イデオロギー的対立(冷戦構造)の衰退が「社会の稚拙さを後押し」と指摘されています。
僕はここに「お金」の役割も指摘しておきたいと思います。

教科書的に言われているお金の役割のひとつに「価値判断の基準」があります。
値段が付くことによって、そのものの価値を判断する目安となる、というものです。
「これは幾らなのね」「この人の年収は幾らなのね」という目線で、普段私たちは人やモノを判断していませんか?

それって、どうなんでしょう?

人やモノの価値を判断することは本来、その複雑な社会的背景を総合的に分析しなければなりません。
それは大変なエネルギーを必要とする作業です。
「値段」に置き換えることによって、その手間を省いている、とも言えるのです。
しかし、ここに実は落とし穴があります。
手間を省いているということは、その判断を他人に預けている、ということです。自分で調べ考えることを放棄している、ということです。

値段というもの、本当にその人やモノの社会的背景を正確に反映しているのか、というのは現代においては甚だ疑問の多いところです。
そして、人やモノを評価するということは、社会が成り立っていくために必要なつながり、本当は「絆の礎(いしずえ)」になっているのではないでしょうか。
なぜならそこには何らかのコミュニケーションが発生し、対象への観察と思考が生まれるからです。

社会とは、その経済システムを指すのではありません。
私たちの複雑に絡まる意識と行為が織りなす状態こそが、社会なのです。
「お金」は実はその私たちの意識と行為が創り出す編み目を壊す作用があるのです。

 
 

茂木 健一郎

1時間前 · 

 

世界の対立構造の変容

ぼくが子どもの頃から、1989年のベルリンの壁の崩壊まで、世界には「冷戦構造」があった。米国を中心とする資本主義国と、ソ連を中心とする共産主義国が対立していた。この構造は、今考えると、まだ「わかりやすかった」と感じる。

個人の自由や、起業精神を重視するのか、それとも、平等や、社会の秩序を重視するのか。実際の政治のあり方には、個人崇拝や腐敗などの問題があったものの、資本主義対共産主義のいわゆる「イデオロギー」の対立は、理論的には筋が通っていた。

結果として、共産主義の計画経済は資本主義のダイナミズムの前に破れ、中国もまた市場経済に舵を切った。イデオロギー戦争は終わり、フランシス・フクヤマが「歴史の終わり?」で、資本主義、自由主義の勝利について考察した。

フクヤマが指摘したように、それで歴史が終わったのかと思ったら、そうではなかった。現在の社会は、何かが融けてしまったかのように、あらゆる地域で、さまざまな対立が生じている。極端な主張が、ポピュリズムの中で支持を集め、政治的な力をもとうとしている。

ところが、現代の対立の多くは、資本主義対共産主義のイデオロギー対立にくらべると、幼稚であり、知的負荷がひくい。世界は、むしろ、稚拙で粗野な思想対立にこそ、支配され始めているように思われる。昔ならば「色物」だった政治家が、選挙で勝利する事例が増えてきている。

このような、対立の愚鈍化の背景にあるものは何か? もともと人間は、ある一定量の対立的感情を持つものであり、冷戦時代は、イデオロギー対立というわかりやすい構図に、そのようなエネルギーが吸収されていただけなのかもしれない。

あるいは、技術文明の成熟が、人々を幼稚にしているのかもしれない。世界の「対立」の多くは、もはや文明の本質や社会秩序の中心と無関係な「おしゃべり」であり、そのような対立構造で感情のマグマを散らすという贅沢が、テクノロジーのプラットフォームの上で可能になっているのかもしれない。

いずれにせよ、今世界各地で顕在化している対立構造のほとんどが、知的な意味、世界観の文脈では稚拙なものであるということは留意しておくべきだろう。ミネルヴァのふくろうは技術の山の中で深い眠りにつき、騒々しいカラスたちがわめき散らす時代に、耳を塞いで内面の音楽を聞くことも大切だ。

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