経済学の役割〜スモール・イズ・ビューティフルを読み解く3

今日、世界中で「経済的に是か否か」という会話がなされない日はないでしょう。
世界中で「経済性」ということが人びとの最大の関心ごととなっています。
今の日本で言えば、「原発の経済性」というところでしょうか。
では「経済的に見て」という判定は、何を意味しているのでしょうか。

豊かさが増すにしたがって、経済学が人びとの主たる関心ごととなり、経済の実績、成長、発展などが先進社会の、脅迫感とは言わないまでも、普段の関心事になってきた、といっても過言ではあるまい。今日、人が口にする非難の言葉の中で「不経済」という言葉ほど決定的なものはない。(中略)経済成長を妨げていると分かれば、何事でも恥ずべきことであり、それをやめない人は妨害者か阿呆と見られてしまう。ある行為を不道徳だとか、醜悪だとか、単調だとか、ないしは人間を堕落させるとか、世界の平和や子孫の繁栄を脅かすとかの理由でどんなに批判してみても、それが「不経済」だと証明できなければ、その行為の存在価値を本当に否定することにはならないのである。(p.55)

現在、私たちは何をするにも無意識のうちにお金に換算して判断していないでしょうか?
そのことを無批判に受け入れることで、私たちはまったくお金に縛られている、状態になっているのではないでしょうか。

ケインズは「人は長期的に見れば死んでしまうのだからという理由で、長期より短期をはるかに重く見る」といったそうですが、その短期的視野を私たちが「経済性」を重視することの第一の理由にシューマッハーは挙げています。
第二の理由は、「コスト」の定義の中に「神から与えられた」環境が、私的に所有されるものを除き入っていないから、としています。

人間は自然界から食料やエネルギー(の元)を得ていますが、それらはまったくの「自然からの贈り物」です。
もちろんそこには「労働」があり、それに対して「コスト」計算が為されます。
商品はその市場価値において「経済性」が問題とされます。
ここで良く考えてみると、人間は自然界から得たものに対して(畑からとれる野菜は生態系と太陽エネルギーによって成長し、私たちの体を作るものとなりますし、鉱物資源は元々誰のものでもありませんよね)何ら「お返し」をしていません。乱暴な言い方をすれば、「収奪」しているともいえます。
本来、経済学というものが「財」全般を取り扱うものならば、人間が自然から得ているものの「コスト」も考慮すべきです。もし考慮されているならば、環境を保全したり、持続可能な経済システムを考える際に、その「経済性」によって否定されることなどないはずです。
つまり、経済学では人間が自然界に依存している事実が無視されているわけです。

同じことを別な表現で言えば、経済学は財やサービスを、売り手と買い手が出会う市場という観点から扱っていると言える。買い手はもともと出物を探しているわけで、品物の産地や背景などには関心はもたない。関心があるのは安い買い物をすることだけである。(中略)ある意味では、市場という物は個人主義と無責任が制度化されたものであるといえる。(中略)輸入品が安いのに、まずもって国産品を買うとすれば、それも「不経済」だろう。買い手は国の国際収支などと考えないし、またそれが当然ともされているのである。(p.58)

ここに重要な指摘があります。つまり、経済学とは徹底的に「経済」を数値化し、それを量的に計算できるものにしている、というのです。
数値化とは、お金に換算する、ということです。
そして、「商品」として市場に出たとたん、それはその社会的背景を消されてしまう、と言います。

例えば、僕の家業は焼き物屋ですが、1枚の真っ白のお皿が¥2,000-します。同じくらいの大きさの白いお皿は100均ショップにもあります。
ということは、「経済的」に見れば僕のお皿の市場価値は無いに等しくなります。
しかし世の中そんなに捨てたものではなく、けっして多くはありませんが僕の皿に何がしかの「社会的背景」を感じてくださる方々も居ます。
「社会的背景」とは、僕がどのように考え、どのようにそれを創り出したのか、ということであり、僕の人格と人権そのものです。

つまり経済学では人格や人権までも無視しているということです。

また、現在安い輸入品が大量に出回っていますが、高い国産よりそちらを選択することで(その選択しかない場合もあるかもしれません)結局のところ国内の多くの産業は疲弊し衰退してきています。海外の巨大資本による郊外型マーケットも然り。
(これは海外資本に限らず、国内企業であってもそのお店で買い物をすれば、そのお金は地元ではなく主に大都市に集められます。大きな公共事業でも同様の現象が見られ、このようにして地方は貧しくなっていきます)
このことは消費者である私たちの責任、とも言えます。
普段の買い物でなかなかそこまで考えることはないかもしれませんが、消費という行為は自分以外に対する責任免除されているかのように思えてしまうのが、経済学のもっとも大きな功罪かもしれません

言い換えれば、それは「派生的」な学問、超経済学(meta-economics)からの派生的学問であると言えよう。経済学者がこの超経済学を学ぶことを怠ったり、もっと悪い場合、経済計算の適用できる範囲には限界があることに気付かないままでいると、彼は物理学の問題を聖書の引用で解こうとした中世の神学者に似た過ちを犯すことになろう。どんな学問もその限界の中で役に立つのであって、その限界を踏み越えれば、悪となり、害を及ぼすことになる。
(中略)では、超経済学というのは何だろうか。経済学は人間を環境ぐるみで取り扱う学問であるから、超経済学とは二つの構成部分、つまり、人間を扱う部分と環境を扱う部分から成るものと考えてよいだろう。言葉を換えれば、経済学の目的と目標は人間の研究から導きだれなければならないし、その方法論の主要部分は自然の研究から導き出すべきだと考えてよかろう。(p.61)

私たちが普段の生活で、「経済性」を考える時に「質」と「量」を無意識に無視している、あるいは同等に扱ってはいないでしょうか。
この世の物には、「質的差異」が必ずあります。僕が作った皿と、100均ショップの皿が「質的に」違うように。
(お断りしておきますが、単純に100円の皿より自分の作った物が優れている、と言っているわけではありません。100円のお皿にも立派な「社会的背景」はあります。100円の皿はどうして100円なのか、という別の問題が含まれています)
しかし、それがいったん「お金」に換算されると、値段がつけられると「同じ地平に立つもの」になってしまいます。
これが「食べ物」と「サービス」でも同様です。
この「質」をどのように捉えるのか、というのは難しい問題です。僕の皿にまったく価値を見いださない人もいますし、「なんて安いんだ!」とおっしゃってくださる方もいます。ですから、「質的差異」を無視して、まるで「量的差異」と同じもののように判断する方がよっぽど楽なのです。

シューマッハーは、「財」には本質的な差異があって、これを区別しなければ現実から遊離してしまう、と指摘しています。
具体的に、「財」を第一次財と第二次財に分け、第一次財には「再生不能財」と「再生可能財」、第二次財には「工業製品」と「サービス」を分けています。

第一次財とは、自然界から得られる物を指し、「人間は本当の生産者ではなく、加工者に過ぎない」のである、といいます。
そしてこの4つは本質的な意味で異なり、「同じ尺度では測れない」といいます。

市場はこの区別を知らない。すべての財に値段をつけ、それで重要度はみな同じものに見せかける。5ポンドの石油(第1のカテゴリー 再生不能財)と5ポンドの小麦(第2のカテゴリー 再生可能財)は同じであり、それらはまた、5ポンドの靴(第3のカテゴリー 工業製品)や5ポンドのホテル代(第4のカテゴリー サービス)と等しいわけである。このような各種の財のどれが相対的により重要かを決める基準は、これを供給して得られる利益率だけである。もし第3・第4のカテゴリーの財が、第1・第2のそれより大きな利益を生むとしたら、それは資源を前者に投入し、後者からは引き上げるのが「合理的」な「信号」だとされる。(p.65-66)

現代ではこれに加えて、国際金融市場という、第5のカテゴリー?といっていいのか、「貨幣」が一人歩きし人間を支配しようとしているようにすら見えます。

私たちが普段の生活において、経済を考える時、買い物をする時、自分のお金がどこに流れていくのか、自分は何に価値を見いだし経済活動をするのか、つまりお金を使うのかを考えることは、とても重要なことなのです。
そのことが世の中を動かしています。
つまり、私たちの消費行動が世界を変える可能性を秘めている、とも言えるのです。

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