「エンデの遺言」p55からp57にかけて、「未来を食いつぶすお金の正体」という項目があります。
ミヒャエル・エンデはラストインタビューでこういいます。
「重要なポイントは、例えばパン屋でパンを買う購入代金としてのお金と、株式取引所で扱われる資本としてのお金は、ふたつの異なった種類のお金であるという認識です。」
本では続いてこのように解説されています。
第一にお金にはモノや労働をやり取りする交換手段としての機能があります。第二にお金は、財産や資産の機能も持っています。このお金は貯め込まれ、流通しないお金です。さらにお金には、銀行や株式市場を通じてやり取りされる資本の機能も与えられています。そこではお金そのものが商品となり投機の対象となります。
現在では紙幣すら私たちの手が逃れ、銀行のATMやインターネットを通したやり取りで、まさしく実体のない数字となった“貨幣”が世界を駆け巡っています。
エンデは代表作「モモ」など自身の作品の中で、単にファンタジーという表現手段を通して現代人の余裕の無さを訴えた訳ではなく、実はその奥にあるもの、現代の貨幣経済の矛盾を暴きだそうとしていたようです。
生前親交のあったスイスの経済学者ハンス=クリストフ・ビンズヴァンガーは、エンデの「鏡の中の鏡-迷宮-」の中には、現在の貨幣経済の問題性が描かれていると言います。
錬金術は鉛から金を作り出そうというものですが、ありふれた鉛を金という価値のあるものに変えていくという考えは、現代にも通じるものでしょう。通貨を印刷し、さらに利子がそれを増やしていくわけですから。そのお金が一人歩きして、自己を食いつぶすように自然環境やモラルを破壊していきます。お金を考えるとき、モラルの問題を忘れてはなりません。お金には、倫理的問題が存在するのです。
結局、将来に生じる利益をいま、われわれは価値として受け取っているのであって、将来的価値、つまり発展度が低くなれば、現在ある貨幣価値、すなわち株における貨幣価値は下がります。
(中略)
しかし、豊かさが存在する一方で、環境が搾取され破壊されるという否定的な面を見なければなりません。われわれは将来を“輸入”して、いまを生きています。そのために環境を消費し、資源を食いつぶしているので
さらにビンズヴァンガーは続けます。
株式経済は重要な企業形態ですが、成長を基盤としています。(中略)成長とは投資のことなのです。株所有者は将来的な利益向上のためにより多くを出資し、さらなる利益を得ようとします。そこで問題になるのが、このような基金形態が企業の生成にとっていいものなのか、ということです。基金形態は何を生産するか、という企業目的に多くの出資をするべきです。それにより生産がより多くの意味を持つようにする、そういうことを、いま、われわれはよく考えなくてはいけないのではないでしょうか
エンデは株式市場外に健全な貨幣経済、あるいは自己増殖のない貨幣経済のことを本に書こうとしていました。(中略)断片として残った彼の理念とは、仕事が貨幣価値の小細工に基づいて支払われるべきではなく、生活労働に対して支払いがなされなくてはならない、作り上げられた資本価値に応じてではなく、家族生活に何が必要かが基準になるべきだ、というものでした。これはドイツの思想家シュタイナーの考え方によるもので、仕事が品物によって判断されるのでなく、生きるための労力によって判断されることが重要視されたのです。このような考えが、彼が本を書こうとした基礎にあったようです
お金には倫理的問題が存在する。
これについては、私たちにも記憶に新しいある事件を思い起こします。
いわゆるライブドア事件と村上ファンド事件です。
また、株式経済に対する考察も、一見当たり前のことを述べているようですが、この当たり前のように見えることの本質を、本当に私たちは理解してるのでしょうか。
僕の仕事を例にとると、昨今外国から安い食器が大量に輸入され、100円で売買されたりしています。皆さんもよくご存知だと思います。
しかし、手づくりの器を100円で売っていては、とても生活は出来ません。
ところが器が100円でも十分に利益を出し、企業が成長出来てしまっています。
それは、僕らの仕事が意味のないもの、社会に必要でないことを意味するのでしょうか。
陶芸のことを語りだすとつい熱くなり長くなってしまうので(笑)、ここでは問題提起にとどめておきます。
僕個人のブログでは、追々書きたいと思います。
(以前書いた記事100均ショップの功罪)