「スモール・イズ・ビューティフル」の第2章は「平和と永続性」と題されています。
なぜ、経済学者であるシューマッハーが平和について論じたのでしょうか。
平和の一番確実な土台は、繁栄を行き渡らせることだという意見が、今日大勢を占めている。ところが、歴史を調べてみると、金持ちが貧乏人よりも常に平和だったという証拠は見当たらない。すると今度は、金持ちはいつも貧乏人を恐れてきたのだと主張してくる。つまり、金持ちが戦争を好むのは恐怖によるのであり、だから、みんなが金持ちになれば事情は一変する。戦争を仕掛けるのは、身をしばる鎖の他に失うもののない貧乏人、被搾取者、被抑圧者ではないだろうか。こうして、平和への道は豊かさを追求することだということになる。
現代のこの大勢意見には抗いがたい魅力がある。というわけは、これに従うと、豊かさという望ましいことが早く実現できれば、もうひとつの望ましいものである平和も確実に実現できるからである。自己抑制や自己犠牲は必要でなく、むしろその逆である。平和と豊かさを実現する上で、科学と技術という援軍があるのだから、必要なことといえば、ばかばかしく不合理な自己抑制や自己犠牲などをしないことである。貧乏人や不満分子には、性急に金持ちに挑んだりすると、将来自分たちにも金の卵を産んでくれるはずのガチョウを、かえって殺すことになる、と教えればよい。一方、金持ちには、利口になって時々貧乏人を助けること、そうすればますます金持ちになる、と教えれば良い。
(中略)人びとはガンジーには耳を貸さず、今世紀一番影響力の大きい経済学者である偉大なケインズ卿の言葉に耳を傾けようとしているのではないか。世界不況のさなかの1930年に、ケインズ卿は『孫の時代の経済情勢』に思いをこらし、みんなが豊かになる時代はさして遠くないという結論を得た。そうなれば、人は「再び手段よりも目的を高く評価し、利よりも善を選ぶ」だろう、と彼はいう。
さらにケインズ卿は「だが、ご用心あれ。まだそのときは到来していない。後少なくとも100年間は、いいは悪いで悪いはいいと、自分にも人にも言い聞かせなければならない。悪いことこそ役に立つからだ。貪欲と高利と警戒心とを、まだしばらくの間われわれの神としなければならない。これによってはじめて経済的窮乏(キュウボウ-金銭や物品が著しく不足して苦しむこと)というトンネルから抜け出て、陽の目をみることができるのだから」といっている。
少々長い引用ですが、これが冒頭の文章となります。
シューマッハーは3つの部分に分けることができるといいます。
- 繁栄を行き渡らせることは可能である。
- これを達成する上で土台となる考え方は、「冨を求めよ」という唯物主義である。
- そうすれば、平和が達成できる。
シューマッハーの説によれば、ケインズの主張を受け入れた人類は「平和を達成するためには、人間の欲望を増大させることを美徳とし、経済発展を促進させ、それをあまねく世界中に行き渡らせることである」と信じている、というのです。
確かに、日本をみてもそれは数十年にわたって経済大国たらしめ、様々な科学技術の発展の原動力になってきたことは間違いありません。
しかし、ここには倫理的な問題はまったく無視されています。
それは何か。
それは根底に「大事なことは自分の身を守ること。欲望を享受する権利を守ること。そのために他人が多少犠牲になることはやむを得ない」という考えが潜んでいる、ということです。
ケインズの死後、世界から戦争が一向になくなる気配がないのはどうしてでしょうか。
上記のような考えの人びとが社会の大勢を占めるのならば、それはもはや社会と呼べません。なぜなら、お互いがお互いの欲望のために他人に犠牲を強いるからです。
それは国家レベルでも同様です。
日本は技術大国として名を馳せてきましたが、それは資源国(ほとんどは貧しい発展途上国)から安くで原料を輸入し、それを加工し付加価値を付け高価格で輸出してきたからです。
当初はそれが可能でしたが、近年はそれが困難になってきましたね。
もちろん資源が有限であること、だけでなく、企業がグローバリゼーションに対応するため「より安くてより良いもの」を求めた結果、世界有数のお金持ちとなった日本の高い人件費を嫌って人件費の安い国へ生産拠点を移転し、その結果貧しかった国が次第に国際競争力を付け、今までのように安くで原料を輸入することが難しくなり、日本で作るよりも安い完成品が輸入されるようになり、日本ではバブル後世間の不況感は払拭できず恒常的なデフレ傾向は改善されないまま、消費者は国内で生産されたものより多少質は落ちても安い輸入品に群がり、結果日本のあらゆる分野の産業が衰退し、有能な技術者は海外へ引き抜かれ日本の最大の強みであった技術力も根幹から揺らいでいる、というのが現状です。
これが「悪徳を美徳とした」結果なのです。
ちなみにケインズは、「公共投資」という処方箋を編み出しました。こちらに分かりやすく説明されていますのでリンクを張らせて頂きます。
この記事を見ると、大戦直後の日本では公共投資が有効だったのかもしれませんが、高度経済成長が始まった時点でその規模を縮小すべきだったのかもしれませんね。そうすれば、現在の財政赤字もここまでならなかったのかもしれません。
そしていったん上がった人件費は、なかなか下げられません。その結果、大量のリストラを生み出し、企業は正規採用ではなく、派遣社員やパートに依存することになります。かくして経済格差が増大して行きます。
当然、皆が「悪徳」を求めようとしてもそれが困難になります。そして「十分豊かであるにもかかわらず、相対的に豊かさを享受できないと思う心理」により社会不満は増大し、凶悪犯罪の元凶となります。
それが今の日本の姿です。
「今日本が経済破綻したらどうするんだ」という心配は、現実的な問題なのです。そしてそれを招いたのは、私たちの欲望、「悪徳」に他なりません。
日本国家の財政の危機的状況は「お金」崩壊 (集英社新書 437A)や日本人が知らない恐るべき真実 〜マネーがわかれば世界がわかる〜(晋遊舎新書 001)に詳しく解説されています。
そしてシューマッハーはまるで予言者のようにこう述べています。
だが、ここでも多くの人たちはこの問題を、楽観論を取るか悲観論を取るかという次元でしか論じようとしない。楽観論者は「科学が解決してくれる」と胸を張って主張する。私の考えでは、彼らが正しいとすれば、それは科学の探究の方向が意識的に、また根底から転換した場合に限る。過去100年間の科学・技術の発展のもとでは、危険の増大のスピードが早すぎて、こうした転換の目はつぶされてきた。(中略)
従って、誰も彼もが十分に冨を手に入れるまでは際限なく経済成長を進めるという考え方には、少なくとも二つの点、すなわち基本的な資源の制約か、経済成長によって引き起こされる干渉に自然が堪えられる限度か、あるいはその双方から見て重大な疑問がある。さて、物的側面は十分に論じたので、次に非物質的側面を考えてみよう。
蓄財が人の心に強く訴えるという点には、疑問の余地はない。(中略)
ケインズに従えば、経済的進歩というものは、宗教と伝統的英知がつねに戒めている人間の強い利己心を働かせた時に、はじめて実現できる。現代の経済ははげしい貪欲に動かされ、むやみやたらな嫉妬心に満ちあふれているが、これは偶然ではなくて、そのおかげで拡大主義が成功を収めたのである。問題はこの秘訣が長期にわたって効力を持つか、あるいはその中に崩壊の種を宿しているかどうかにある。(中略)
私は多くの証拠から判断して、今やこの陳述が文句なく誤りであると考えている。貪欲や嫉妬心のような人間の悪を意識的に増長させるならば、そこから必然的にでてくるのは、理性の崩壊だけだろう。貪欲と嫉妬心で動かされる人間は、ものごとをありのままに、完全な形の全体として眺める力を失ってしまう。そして成功そのものがかえって災いになる。社会全体がこの悪に染まると、目に見張るようなことはできても、日常の生活のいちばん基本的な問題を解決できなくなってしまう。国民総生産は急速に増えるだろう。統計の数字はそれを示すのに、生きた人間の実感はそれに伴わず、人びとはますます挫折感、疎外感、不安感などに襲われるようになる。やがては、国民総生産も成長を止める。科学・技術の進歩が止まるからではない。社会の中で圧迫されている層だけではなく、大きな特権を持つ層の中にも、様々な現実逃避の形を取った反社会的行動が広がり、これがじわじわと社会を麻痺させるからである。
まったく、先に挙げた日本の今の姿そのままではありませんか。
ではシューマッハーはどうすれば平和を獲得できるのかといっているのでしょうか。
シューマッハーはそのためには「英知」こそが必要であり、「経済的にいえば英知の中心概念は永続性である」といいます。
「欲望をかきたてたり、増長させたりすること」ことと「英知」とは正反対であり、それはまた「自由」と「平和」の正反対である、ともいいます。
欲望が増すと、意のままに動かせない外部への依存が深まり、したがって、生存のための心配が増えてくる。欲望を減らしてこそ、争いや戦争の究極的な原因であるさまざまな緊張を本当に和らげることができるのである。(中略)
科学者と技術者は、一体何を求めたらいいのだろうか。私の答えは次の通りである。科学・技術の方法や道具は、
- 安くてほとんど誰でも手に入れられ、
- 小さな規模で応用でき、
- 人間の想像力を発揮させるような、
ものでなくてはならない。
またガンジーは「一人ひとりの人間を助ける機械はいいが、少数の人の掌中に力を集中させ、大衆を失職させないまでも、機械の単なる番人にしてしまうような機械はいらない」といっている、といいます。
また、事業の規模は自然の回復力、許容力を考慮しなければならず、しかし人類は「原子力とか新しい農芸化学とか、輸送技術やその他数多くの技術の例でわかるように、限られた知識を巨大な規模で容赦なく応用するところに例外なく、大きな危険が生じてくる」と指摘しています。
そして「正しい労働観が必要」といいます。
家族の次に社会の真の基礎を成すのは、仕事とそれを通じた人間関係である。その基礎が健全でなくて、どうして社会は健全でありえよう。そして、社会が病んでいるとすれば、平和が脅かされるのは理の当然である。
そして「戦争の本当の原因」は、「第一に意識的に貪欲と嫉妬心をあおり、法外な欲望を解き放ってしまったこと」であり、それがゆえに「英知は無視され、それが何なのかわからなくなってしまった」ことであるといいます。
では英知とは何でしょうか。
シューマッハーがいう「英知」とは、「貪欲や嫉妬心という、今自分を支配しているものを捨てたとたんに訪れる静けさ(p49)」です。
これはまさしく仏教的な「悟り」のひとつ、といっていいでしょう。
最近ではもっと気楽に「気づき」といった言葉も使われますが、このような洞察によって物質的な無限の欲求では決して人は満足せず、本当の満足とは精神的なものである、ということに気付き始めた人が増えているように思います。
つまり、現在の経済成長を支えている「人間の飽くなき欲望」を取り除かない限り、「英知」を得ることはできないし、英知が得られなければ「平和」も得ることはできない、なぜならば「人間の飽くなき欲望」こそが争いの原因であるから、ということです。
政府やマスコミは、GNPのマイナス成長がさも大問題のように宣伝しますが、永遠につづく経済成長という幻想を、私たちは捨て去らなければならないのです。
最後にシューマッハーが挙げる実践をご紹介しましょう。
貪欲と嫉妬心を捨てるには、何から手をつけたら良いだろうか。多分次のようなことだろう。自分自身の貪欲と嫉妬心を弱めること、贅沢品を必需品にしないようにすること、現在の必需品を見直して、その数を減らしたり、質を簡素化すること。仮にこのひとつも実行できないとしても、どう見ても永続性を保証できないような経済的「進歩」をほめるのをやめ、変わり者と非難されるのを恐れずに、自然保護者、エコロジスト、野生動植物の保護論者、有機農業の推進者、流通制度の改革者、村落の小工業主等々として非暴力の運動に従っている人たちに、ささやかな援助と支持を与えることはできるのではなかろうか。百の理屈よりひとつの実行が尊いのである。
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