おはようございます(^_-)
このところ、来週末から始まる「綾工芸まつり」の準備で、器を古新聞で梱包する作業をしたりしています。
ふと、昨日ある記事が目にとまりました。
2012年11月4日の宮崎日々新聞。ちょうど2年前のものです。
なんだかインド人?らしい女性が載ってます。
見出しは『人生を変える「選択」の力』。
米コンロンビア大教授、シーナ・アイエンガーさんのインタビュー記事でした。
<人生のあらゆる場面で、さまざまな「選択」を行うことが迫られる。そしてしばしば、人びとは誤ってしまう。正しいと思って選んだ道なのに、なぜ間違ってしまったのかー。20年以上にわたって、その一点を追求してきた>
シーナさんによると、人は記憶の中の「取り出しやすい情報」に捉われる傾向があるそうです。
例えば、採用試験の面接では、最初と最後の志願者が一番注目されるそうです。数字や、目に見えるものを重視する傾向もある。
それは客観的な判断にゆがみを与えてしまいます。
でも、それは訓練することで相当程度、克服できる、そうです。
人間の選択には「理性によるもの」と「直感」がある。例えばチェスのチャンピオンなどは、この二つを瞬時に同時に行っている、そうです。
ではどうすればそれが身につけられるのか。
<選択に至った思考プロセス、判断に用いた情報を書き留め、その後、その判断について自己評価する。この作業を繰り返すこと>
だそうです。僕もしょっちゅうやってます。
また、こうも言われています。
<正しい選択を歪ませてしまう脳のバイアス(偏り)には、自分の信念の誤りを否定する情報を遠ざける「確証バイアス」がある>
と。
例に挙げられていたのが、「福島原発事故」でした。
「津波はこない」「原発は安全だ」事故以前に、原発に対して警鐘を鳴らしてきた人たちに、投げられた言葉です。
つまり「余計なプライド」や「根拠なき楽観主義」のことです。
<ひとつのことを主張しても、誤りがあれば素直にただす、意見を改める、周囲も容認するーそうした文化があれば、組織の「確証バイアス」も防げるし、リーダーシップをとろうとする人が生まれやすい。日本はプロセスにおける失敗に対し、もっと寛容な社会であるべきだ>
おっしゃる通りです。
ところでイギリスでの研究では、社長などの重要な選択をする立場の人の方が、部下などよりも心臓病で死亡する確率が3分の1だった、そうです。
これは、自分の裁量で能動的、創造的な仕事に取り組んでいる方が、受動的な生活や仕事を送っているよりストレスが少ない、ということでしょう。
「選択の回避」は果たして「楽な人生」でしょうか。
実はこの記事こそ、本当の「引き寄せの法則」なんです。
(というのは、ちょうどFacebookでのイベントページに、知り合いの方が忘年会シーズンなので、とお断りしてこられたのです。まさしくタイミング、なのではないでしょうか)
12月と言えば忘年会シーズン。
いろいろとお付き合いもあることと思います。
僕も自称社長の端くれ。付き合いが大事なことは、重々承知しております。
普段の仕事で疲れて、週末はゆっくり家で過ごしたい。
よくよく分かります。同情いたします。
でも、忘年会と「お金の話」、あなたの人生に大きな影響を与えるのは、果たしてどちらでしょうか?
人生のうちの数時間、「疲れてしょうがない」仕事とは全く違う視点に触れてみることは、あなたの人生に本当に必要ないことでしょうか?
「タダみたいなセミナーだから、内容もどうせ大したことないんだろう?」
そのように判断されるのも、また「選択」の一つです。
僕はこのセミナーを通して、大なり小なり世の中を変えたいと思っています。それはお金で変えられるものではありません。
お金で変えられないことをしようとしているのですから、幾らください、とは申しません。
ただ、それだけのことです。
(お金で世界を変えよう、と思っている人が結構いらっしゃいますが、そういう人にもきっと参考になると思います)
私たちの人生は、私たちの選択の結果です。そして、現在の私たちは未来の私たちの「原因」です。
世界を動かしているのは、誰でしょう?
陰謀論なんて、他人のせいにしちゃいけません。
世界は、私たち自身の「選択の集積」です。
「私たちがそう望んだから」今の世界があるのです。
私たちがそう望まない限り、私たちが選択しない限り、世界は変わりません。
「別に変わらなくてもいい」
イギリスの研究を思い出してください。
「経験に基づく直感」を身につけ、自分で考え選択する人生の方が、実は「楽な人生」なんです。
「既に実践している。そのおかげで社会的にも成功している」
ご立派です。素晴らしいことです。
しかし、お金の話を聞くと「あなたの世界」は一変します。
自分だけ良ければいいですか?
僕が言えるのは、「それでも世界は回っている。あなた独りが廻しているわけではない」ということです。