「スモール・イズ・ビューティフル」E.F.シューマッハーを読み解く1「生産の問題」

僕は学生の頃、当時生物学者を志していたのですが、それよりも世の中のシステムになぜか馴染めない自分に悩んでいました。
自分がモラトリアムであることがいけないのか。
自分と世界との関わりを模索する上で生物学を選んだのですが、どうも生物学含め科学というものはまったく完成にはほど遠く、自分が生きているうちには答えを得ることができそうにない、と考えるようになってきました。
自分を取り巻く世界、つまり大きな意味での「自然」を理解することは重要だが、人間が生活する上で作り出した「かご」である社会は、巨大な経済システムで動いており、どうもそれに対しての居心地の悪さを感じているのだ、と気付くようになりました。

そんな時に出会ったのが「スモール イズ ビューティフル (講談社学術文庫)」でした。
初版が1973年のこと。実に38年前の著作です。僕が出会ってからは20年が経ちますが、未だその先見性は色褪せてはいません。

当時の僕の経済に対する知識というのは、まったく中学校のレベルでありましたが、何かがおかしいと感じていました。
そして「人間中心の経済学」と副題が添えられたこの本との出会いによって、目から鱗と言いますか、自分の疑問の答えがまさしくここにある、と思えたものでした。

ここでは順を追って読み解いて行こうと思います。

第1章では「生産の問題」が取り上げられています。

普段私たちが自動車を運転するとき、ガソリンの値段を気にすることはあっても、一体そのガソリンがどこから運ばれ、どこで造られ、どうやって私たちのところまで運んで来られたのかあまり考えることはないかもしれません。
僕が小学生の頃、いわゆる「オイルショック」という事件がありました。
第1次オイルショックは第4次中東戦争勃発を受け、OPEC加盟の産油国が原油公示価格を70%引き上げたためでした。その結果、日本では本来原油と直接関係のないトイレットペーパーの買い占めや、NHKの深夜放送の自粛始め省エネルギー対策がとられ、現在と似た状況を呈していました。
第2次オイルショックは、イラン革命によってイランから大量の原油を輸入していた日本に影響があったものでした。

そして記憶に新しいことですが、2008年には一時期200円近くまでガソリン価格の上昇を見た第3次オイルショックとでも言っていいような現象がありました。
このとき前回と違っていたことは、目立った供給減がなかった、ということです。
その原因として

  1. 中国やインドなどBRICsと呼ばれる新興国の経済発展による原油需要の増加
  2. 地政学的リスクを背景にした原油先物市場における思惑買い
  3. 原油産出国の生産能力の停滞
  4. 投機的資金の流入

が言われています。
(4)に関係するサブプライムローンに端を発した国際金融恐慌もかなり影響していた、と観るべきでしょう。
(ちなみに4月18日現在、WTI原油価格リアルタイムチャートによる原油価格は$108.79/バレル、為替相場は1ドル¥82.85、つまり¥9,013.25/バレルです。長らく過度の円高が懸念されていますが、もし今円高が解消され1ドル¥100になったら原油価格は¥10,879/バレルとなります。単純に同率でガソリン価格も上がるとしたら¥145が¥175になります)
そして見逃せないのがピークオイル問題です(3)。
リンク先のwikipediaでは、2060年がそのピークを迎えるという説が紹介されていますが、実は数年前に迎えている、という説もあります
そして、近年中東産油国が競い合うように太陽光発電を初めとするクリーンエネルギー開発に力をシフトし始めています
これは個人的には自国の原油埋蔵量から将来を見据え、資本が豊かなうちに原油に変わるエネルギー供給力を確保し、国際的な発言力を保とうという狙いだろう、と考えています。

ところでこのオイルショック、実は僕が小学校の頃の教科書に「石油はいずれ枯渇する」確かに書いてあったのです。
それは皆さんも同じ経験がおありになるはずです。

シューマッハーはなぜか人々は(専門家含め)「生産の問題は解決済み」という過った考えを持つようになった、と言います。

このひどい誤りが生まれ、こんなに深く根を下ろしたのはなぜかというと、それは過去三、四世紀の間に自然に対する人間の態度、宗教的とは言わないまでも、哲学的な態度が変わってきたことと深く関連している。おそらくは西欧人の自然に対する態度というべきだろうが、今日、世界中が西欧化しつつある以上、人間の、という一般化は許されるだろう。現代人は自分を自然の一部とは見なさず、自然を支配、征服する任務を帯びた、自然の外の軍勢だと思っている。現代人は自然との戦いだという馬鹿げたことを口にするが、その戦いに勝てば、自然の一部である人間が実は敗れることを忘れている。ごく最近までこの戦いは有利に展開し、人間の戦力は無尽蔵という幻想を抱かせたが、やっと多くの人びとがーまだ少数派ではあるがーこの勝利が一体人類の将来にどんな意味を持つのかを理解し始めた。

シューマッハーはドイツに生まれ、第2次大戦をイギリスで敵国人として過ごします。戦後、英国籍を取るのですが、西洋人には珍しく長らく仏教徒を名乗っていました(晩年カトリックの洗礼を受ける)。東洋的な視点によって、一般的な欧米の世界観とは違った客観性により、上記のような分析が可能だったのではないか、と思われます。

言われてみれば当たり前のこと。日本の小学校にも書いてあること、とも言えます。
ところが、今日まで私たちはそのことに対してどのように考え、対処してきたのでしょうか。
政治家や官僚が無能だったから、というのは有権者として言い訳にしかなりません。

問題の核心に触れるには、公害とか環境問題とかエコロジーなどという言葉が、なぜこんなに突然強調されるようになったのかと考えてみるのがよい。工業文明は長年続いてきたのに、わずか5年か10年前には、こんな言葉はほとんど耳にしたことがなかった。これは気まぐれやつまらぬ流行なのだろうか。それとも突然の神経障害が原因なのだろうか。
理由は簡単に説明できる。化石燃料の場合と同様、われわれは生きた自然という資本を長いこと食いつぶして生きてきたのだが、食いつぶす速度が比較的遅かったのである。この速度がむちゃくちゃに上がったのは、第二次世界大戦後のことに過ぎない。現在の工業生産活動や過去の25年のそれと比較すると、第2次大戦中含め、戦前の生産活動の全ては無にひとしい。今後4、5年で生産はもっと増え、世界全体でみて、1945年までの全生産を上回るだろう。言い換えれば、ごく近年になって工業生産は空前の量的拡大を経験したのである。ただし、それがあまりにも最近の出来事なので、多くの人たちの意識にのぼっていない。

つまり、シューマッハー以降、私たち人類はエネルギーや資源の枯渇問題に対して、根本的な解決を棚上げしてきた、ということです。
アメリカによる湾岸戦争やイラク戦争は、その動機は公には「侵略やテロへの報復」ですが、その裏にはイラクが保有する原油にあることは間違いないでしょう。
そして日本も「後方支援」することで、その利権に預かろうとしたのでした。もちろん、それはエネルギー問題の根本的な解決にはまったくならないのです。

またシューマッハーは原子力発電については、

私の主張はきわめて単純なものである。つまり、何10億トンという化石燃料の代わりに原子力を使えという提案は、燃料問題を解決しようとして、恐るべき規模の環境問題、生態系の問題を作りだすものだということである。(中略)それはひとつの問題を別の平面に移して解決を図ろうとし、実際には遥かに大きな問題を抱え込むことを意味する。

と断罪しています。
そしてこのように言います。

私の主張とは何だろうか。それは端的に言えば、今進んでいる破局への道を脱出するのがもっとも重要な仕事だということである。では、その仕事は誰がやるのだろうか。それは年齢、財産に関係なく、権力や影響力のあるなしを問わず、われわれ一人ひとりである。未来を語ることに意味があるのは、現在の行動に結びつくときだけである。
さて、「暮らしは今や最高だ」とまだ言っていられる現在、何ができるだろうか。少なくとも次のことは言えよう(じつはたいへんなことであるが)。まず問題の本質を良く見きわめて、新しい生産方法と消費生活による新しい生活様式を作りだすよう模索すべきである。この生活様式の目標は永続性である。最終結論ではないが、三つほど例を挙げよう。農業では、生物学的にみて健全で、地力を強め、健康と美と永続性を生むような生産方法を完成させるように努めることである。生産性の向上は後からついてくる。工業の分野では、小規模の技術、非暴力的な技術、「人間の顔を持った技術」を開発することによって、賃金のためだけに働き、余暇時間の楽しみにはかない期待をかけるのではなく、楽しみながら働くことができるようにすることである。一歩進めて、工業は現代生活の先導者なのだから、経営と労働の間の協調関係の形とか、さらには共同所有の形を探ることもできよう。

とてもシンプルで分かりやすい主張です。
現実には今の経済システムは高度に複雑で、とても実際的ではないという意見もあるでしょう。しかし私たちは、私たちにとって本当に何が重要なのかを見誤ってはいけないではないでしょうか。

「「スモール・イズ・ビューティフル」E.F.シューマッハーを読み解く1「生産の問題」」への6件のフィードバック

  1. 申し訳ありません、誤植しましたね。こうして間違いを犯すのが人間ですし、間違ったら恥ずかしくっても謝って訂正しなけりゃならんのもまた真実。お詫びして訂正します。「シンプル・イズ・ビューティフル」じゃなくて、「スモール・イズ・ビューティフル」でしたね。ああ、みっともないったらありゃしない。

    「スモール・イズ・ビューティフル」は大変有名な本ですが、シューマッハを根拠に原発を語るなら、yasoichiさんは2011年を生きる私たちに、1973年当時の世界観で原発に反対していることになりますね。貴方にとって居心地の良いシューマッハの世界にいつまでもとどまり続けて、この38年間に人類が蓄積して来た知恵や経験は全て無視するおつもりでしょうか?地球温暖化についての考え方はシューマッハの時代と現代とでは相当に変わっていますし、原子力技術も進んでいます。また、不幸なチェルノブイリ事故での経験によって、現在では人間以外の生物は事故跡地に旺盛に繁殖していることが分かっています。少なくともシューマッハが存命であったら、「スモール・イズ・ビューティフル」には何らかの改訂が施されたことでしょう。「考え方」は大事にしても、「具体例」までただそのままシューマッハを引用するのではなく、「今シューマッハが生きていたならどう言うか?」を推察するのがシューマッハの弟子を自認する者の努めでしょう。孫子の兵法が「戦略書」としては今なお価値があっても、近代戦における「戦術書」としては必ずしも適切ではないのと似ているかもしれません。38年を経てなお価値がある書籍であっても、そのまま利用できるものではありませんし、その裁量は読者に任されています。

    そして、20年前に気づいていたと誇るなら、気づいた貴方は、この20年何をされていたのでしょう?「私たち」の責任を問う前に、まず気づいたご自分の行動を明らかにされてみてはいかがでしょうか?もしそれをしないなら、気づいていなかった人々を「私たち」という言葉で道連れにして、「気づいていた」貴方の責任をなすりつけようとする態度であると読者は感じるものです。個人ブログの読者というものは、yasoichiさんによるシューマッハの解説を読みたいのではなく、yasoichiさんがシューマッハの考え方を活用して具体的にどんな行動をとろうと考えているのかを知りたいのです。

    例えば、yasoichiさんが自然エネルギーへの移行が今からどれくらいの期間で可能かと見積もっていて、その期間にあわせたプランをどう考えているのか?「インターネットを調べれば」yasoichiさんの答が書いてあったりはしません。

    例えば、来月に出来るのか、今年いっぱいか、5年後か、10年後か、はたまたそれ以上なのか?それによって、私たちがとるべき行動は全く変わってきます。

    私は、大学在学時代に高度産業化文明の限界を感じたため、工学部を卒業しながら産業界に入ることはせず、受験勉強をやり直して24歳で医学部に再入学しました。もちろん、高校卒業後5年も経ってから現役高校生、1浪生と同じ入試を戦うわけで、勝算なんてまったくありませんでしたから、将来の職業生活を一切失っても仕方ないという覚悟でした。普通の企業は、大学を出てから浪人していたような変人は採用してくれませんからね。そんな私ですから、男が本気で「これだ」と信じた道は、万難を排して必ず行動に移すものだと思っています。

    私から見ると、反原発を叫んではいるものの、その原発の作る電気はしっかり利用し、しかも脱原発を主張するための必須資格である太陽光発電パネルを導入する気配もないし、「結いの心」を唱える割には福島はもとより玄海町・久見崎町の皆さんへ心を結んで、感謝の意を表す様子もない現在の yasoichiさんの姿勢は、私にとっては極めて不可解です。以前私が問いかけたときにも返答はありませんでしたが、九州で脱原発を叫ぶために最低限必要な自家発電率41%を達成するのは、一戸建てにお住まいの方ならば、本気ならそんなに難しいことではない。こうしてインターネットを使ってPCで会話が出来るだけの経済力があるのなら、貴方が戒める「お金への執着」「豊かな暮らし」を捨てれば多少困難でも実現可能なことです。ネットへの書き込み頻度を見ていても、かなり長時間PCの前にいることは分かっていますから、太陽光パネル購入のためにアルバイトを増やしている様子もない。つまり、「太陽発電パネルの購入意思を表明しない」ということは、脱原発への思いもエンデの教えも貴方の血肉はなっておらず、貴方の暮らしを支えてくれている誰の心とも結び合おうとしないなら、貴方の心の叫びは別のところから生じていると周囲は判断せざるを得ません(気の毒ですが、貴方以外はみんな気づいています。少なくとも、私の周囲では)。これはyasoichiさんにとって非常に不幸なことですし、私に言われてから行動に移しても、容易なことでは信頼の回復は困難です。

    > 私たち人類はエネルギーや資源の枯渇問題に
    > 対して、根本的な解決を棚上げしてきた、と
    > いうことです。

    言葉ではなく、行動で示す。他人を変えようとするのではなく、まず自分を変える。そういう姿勢が、周囲の信頼を得るためには大切です。もちろん、間違えたら、謝罪して訂正することも。

  2. 重ねてのコメント、ありがとうございます。
    もちろん、シューマッハーが存命の頃と現在とでは、その数値は違っています。ではそれは改善されてきたのか?
    そうではありませんよね。
    この本が世に出てきてから何が起こったのかというと、スリー・マイル、チェルノブイリ、そしてFukushimaです。
    シューマッハーが現在に生きていら、なんと言うでしょうね。
    本を読み解く、というのは古いから今には当てはまらない、ではなくその著者のいわんとしていることを汲み取り現在に活かす、ということです。

    20年間何をしてきたのか、というご指摘は甘んじてお受け致しましょう。
    私の個人の能力は未だ至らないものですので、私のペースで努力はしております。
    お互い頑張りましょう。

  3. 補足。

    なぜ人類は生産の問題について、こんな単純なことが分からなかったのでしょうか?あるいはなぜ、見て見ぬ振りを今までしてきたのでしょうか?
    それは現実が見えなかった、からに他なりません。
    それはなぜでしょう?
    それは「欲望」によって目が曇っていたからです。
    そしてその「欲望」の象徴として「お金」があるのです。

    近年におけるサブプライムローン及びリーマンショックに端を発する国際金融恐慌はご存知のことと思いますが、それは「お金」がもはや怪物と化した「マネー」になり、実体経済とは乖離してしまった出来事でした。
    これこそ、人間の欲望が極端な形で「お金=マネー」として現れた事件です。

  4. シンプル・イズ・ベスト。

    > なぜ、見て見ぬ振りを今までしてきたのでしょうか?

    「国家が経済破綻すると、大勢の方が病気や貧困のために亡くなったり、また倒産や解雇で職を失って苦しむことになったりする可能性がありますか?」

    yasoichiさんが今思うところを、「はい、いいえ」の2択で答えてください。

    「可能性」を問うていますから、「はい」と答えても、それは「必ずそうなる」と答えたことにはなりません。「今の」回答を求めていますから、将来に意見が変化しても構いません。決定的な行為に及ぶまでなら、何度でも間違って良い。論理上、「わからない」は「可能性あり」の「はい」と同等であると判定されます。

    回答がなければ、それがyasoichiさんの答と判定します。ただしそれは、回答を拒む意図への様々な憶測を生むことになるでしょう。

    しばらく、このページを訪問することを控えます。次回訪問時までに、回答がなされていることを期待しています。この問いに対して回答が提示されるまでにどれだけ時間がかかっていたかで、私は貴方の意図の程度を知るでしょう。

コメントする

CAPTCHA


 

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください