明治維新から続く日本のかたち

北海道新聞インタビュー〜内田樹の研究室より

ー米国が日本の内政に露骨な干渉をしているとは思えません。

「米国が直接口出ししなくても、日本国内に従属システムができあがっています。最近では鳩山由紀夫首相が沖縄の米軍普天間基地の移設先を『最低でも県外』と言ったら、いきなり首相の座から引きずり下ろされた。別に米国が内政干渉したわけではありません。日本の政治家、官僚、メディアが一致して『米国の国益を損なうような政治家に政権は任せられない』と大合唱して辞めさせたのです。彼らのロジックは『米国の国益を最優先に配慮することが日本の国益を最大化する唯一の道である』というものです。そういう発想をする人間が日本では『リアリスト』と呼ばれているのです」

ー同じ敗戦国のドイツやイタリアは日本と違うのですか。

「ドイツやイタリアでは戦時中でも政権への激しい抵抗が繰り返されました。ドイツではヒトラーの暗殺が何回も計画されましたし、イタリアのムソリーニはパルチザンに処刑されましたし、イタリア軍は最後は連合国側に立ってドイツ軍と戦いました。しかし、日本には戦争指導部に対する理性的な批判も、組織的な抵抗もありませんでした。だから、戦争が終わったときに敗戦の総括をしうるだけの倫理的・知性的な基盤をもった国民主体が存在しなかったのです

ーなぜ日本では抵抗が弱かったのでしょう。

「日本にも自由民権運動に代表されるオルタナティブが存在したのですが、1910年の大逆事件(注2)などで徹底的に弾圧され、反権力的な知の血脈が途絶えてしまった。
それ以前に、幕末の戊辰戦争(注3)、西南戦争での敗戦処理がうまくゆかなかった。そのせいで明治の日本では、ほんとうの意味での国民的統合は果されなかった。日本の制度としての強みは300の藩に統治単位が分かれていたリスクヘッジの確かさにあったと私は思いますが、明治政府が導入した欧米的な中央集権的な統治システムによって、日本の社会的多様性が失われ、社会が均質化・定型化した。それが戦争への抵抗の弱さ、そして敗戦そのものに帰結したと私は思います

ー多様性を消し去ったことが戦争の背景にあると。

「陸軍の長州閥が消滅したあと、1930年代に『旧賊軍』藩士の子弟が大量に入り込みました。太平洋戦争開戦時の首相だった東条英機の家はもともと岩手、満州事変首謀者の石原莞爾は山形、板垣征四郎も岩手。『旧賊軍のルサンチマン(遺恨)』を抱えた彼らが暴走したのは勝者である薩長がつくった『明治レジームからの脱却』を目指したためです」

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