生命と経済

口蹄疫が宮崎で大流行し、畜産業界はもちろん宮崎の経済全体を巻き込んだ騒動になったのはちょうど一年前。いまだ記憶に新しいものです。
しかし僕はその時、少々冷めた気持ちで事態の推移を見守っていました。

というのも、報道で見られる様々な反応というものが、ほぼ全て「経済的な」問題に対しての悲観であり、不謹慎を承知であえて言うと当事者である畜産農家の方々であっても「牛を殺すのはつらい」とは言いつつも、誰も「うちのかわいい牛たちを殺さないでくれ」と言ったという報道は少なくとも僕の見る限りありませんでした(個人所有の種牛の件もあったけどそれはまた別の話です)。

そこに僕は居心地の悪い違和感(それは「殺処分」という表現が端的に表しています)を感じていました。

不謹慎、と書きましたが当時はこんなことはとても言える雰囲気じゃありませんでした。
今でももちろん、このブログを見て不愉快に思う人も少なくないことは容易に想像がつきますが、僕はこの自分が感じた違和感に向き合わなくてはなりません。

それは人々がたとえ家畜であっても「生命」と「経済性」を天秤にかけ、「お金」を取ったということはどうしても自分の中で無視できなかったということです。
それは畜産農家だけではなく、「仕方がないこと」と受け入れた我々消費者も同様です。いつから日本人はこうなったのでしょうか。

渡辺京二著「逝きし世の面影」 (平凡社ライブラリー)第12章「生類とコスモス」によれば、明治維新の直前までの日本人は家禽を家族同然に考えており、少なくとも当時日本を訪れた西洋人の目にはそれが驚きを持って映った様子が紹介されています。
西洋人が食するために農家から鶏を買ったものの、数時間後くだんの農民が「自分が育てたものが殺されるのが忍びない」と買い戻しに来たといいます。これが牛であっても同様でした。
それのみならず、牛乳を人間が飲む、ということは子牛からそれを収奪するものだと考えていた向きもあるらしい。

徳川期の日本人にとっても、動物は確かに分別のない畜生だった。しかし同時に、彼らは自分たち人間をそれほど崇高で立派なものとは思っていなかった。人間は獣より確かに上の存在だろうけれど、キリスト教的秩序感の場合のように、それと質的に断絶していはいなかった。草木国土悉皆成仏という言葉があらわすように、人間は鳥や獣と同じく生きとし生けるものの仲間だったのである。宣教師ブラウンは1863(文久3)年、彼を訪ねて来た日本人とともに漢訳の「創世記」を読んだが、その日本人は、人間は神の最高の目的たる被造物であるというくだりにくると、「なんとしたことだ、人間が地上の木や動物、その他あらゆるものより優れたものであるとは」と叫んだとのことである。

そして現代とは違う死生観、いや常識を持っていたようです。

徳川期の日本人が病者や障害者などに冷淡だと見なされたとしたら、それは彼らの独特な諦念による。不運や不幸は生きることの付き物とし甘受されたのだ。他人の苦しみだから構わないというのではない。自分が同じ苦しみにおちたときも、忍従の心構えはできていた。近代ヒューマニズムからすれば決して承認できないことだが、不幸は自他ともに甘受するしかない運命だったのである。彼にはいつでも死ぬ用意があった。侍の話ではない。ふつうの庶民がそうだったのである。

現代では健康保険や年金(場合によっては生命保険も!)に入っていないと心配な人が多いですが、そういうものがなかった時代でも日本人は平和に生きていました。全てが自己責任でした。
現代人は「社会保障」によって、そういった自然に持って生まれた「(ある意味での)野生」を忘れてしまったとも言えるのではないでしょうか。
「社会保障」が悪いわけではありません。心身ともにそれに頼り切ってしまう人間の問題です。
それは有権者としての責任を棚に上げ政府責任を叫び、消費者としての社会的立場を理解して日々をおくっているのかを省みることなく企業責任を叫ぶ我々の態度ではないのか。
(僕のバックボーンを補足させていただくと、父親が獣医であり、当時現場の最先端で陣頭指揮にあたった家畜保健所の方々の中には、子供の頃からお世話になった方々も含まれていました。また僕の学生時代の専攻は生物学であり、学者を志した時期もあります。一般の方よりも現場をイメージしやすかったのではないか、と思っています)

もちろん、「経済的な理由で」大規模農場経営を目指し多大な借金を抱え、それだけでなくまずは家族を養うためにはお金が必要だという「現実」を軽んじているわけでは決してありません。
しかし、今私たちが直面している「現実」に対して、本当にそうなのかという少し批判的な視点も必要ではないのかということが僕は言いたいのです。

中沢新一さんは「緑の資本論 (ちくま学芸文庫) 」の中で「資本主義の発達の基底には、無限の欲望を促す貨幣の働きがある」と語っています。
これは40年前にE.F.シューマッハが名著「スモール・イズ・ビューティフル」で明らかにしたことでもあり、ミヒャエル・エンデが時間泥棒という例えで「モモ (岩波少年文庫(127)) 」で示したことでもあります。
つまり、永遠に続く経済発展、あるいは拡大再生産というものは、人々の飽くなき欲望を刺激し続けることによって達成される、ということです。
一方では、資源には(特に工業用資源には)現在高騰を続ける原油を引き合いに出すまでもなく限界があります。

現在日本の畜産業は、主にアメリカからの莫大な輸入飼料によって賄われています。
その飼料を生産し日本に運搬するために使われる土地やエネルギーは、視点を変えれば人間が生命を維持するためといいつつ多くの無駄なことをしているのです。
つまり、飼料を作りそれを食肉に変換し流通させ販売するということは、人間が生きて行くためにけっして必要なことではなく、巨大な産業、経済を動かすために必要である、ということです。

これは畜産業界にとどまらず、あらゆる産業に通じることであり、その象徴的な存在が原子力産業なのです。
「放射能のリスク」と「生活の利便性」を天秤にかけ、日本は戦後、原子力政策を押し進め、私たちもそれを容認してきました。
それは言い換えれば「命」よりも「お金」をとった、ということです。
それらのことで多くの人たちが職を得、生活している「現実」がいかに虚構の上に成り立っているのか、そのことに私たちは気付くべきです。
虚構である以上、いつかは崩れ去る時が来ます。
それがある日突然のように来るのを見て見ぬ振りをして待つのか、それとも自らの手で虚構を取り払い新しい世界へ踏みだすのか。
今私たちは、パラダイムシフトの分岐点に立っているのです。

4月10日には、統一地方選挙が行われました。
先の東日本震災と福島第一原発事故を受け、ネット上では脱原発への議論が活発化し、東京都知事選では推進を表明した現職の石原慎太郎氏に対して、僕が見る限り反対意見が多かったように感じました。また、同日1万人規模の反原発デモも東京で行われました。
これを機に、脱原発、自然エネルギーへの転換が選挙でも主な争点になるかと思われました。

ところが、圧倒的得票で石原氏は再選、原発が立地する北海道と福井、島根、佐賀の各県の知事選も、原発問題も選挙戦の大きな争点となったものの、いずれも現職が当選しました(ただしどの知事も安全対策向上はうたってはいます)。
もちろん、候補者を選ぶ基準はエネルギー問題だけではないでしょう。しかし、有権者の中でどの問題が最優先課題なのか、ということが今回の選挙結果に現れたわけです。

ところで、宮崎県議会議員選挙での有権者の自然エネルギー推進の意識分析を行ってみました。
こちら
事前のアンケートによって自然エネルギーを推進する意志を示した候補者の得票数(落選含む)は「99,459」であり、これは当日有権者数「784,326」に対して「12.68%」でした。
もちろん、無回答の候補者もいるし、有権者がエネルギー政策のみで投票したわけではないのであくまで参考の数字ではあります。
当選した候補者のみでは得票数は「77,414」であり、当日有権者数に対して「9.87%」です。
これをいささか乱暴に解釈すれば、宮崎県において自然エネルギー推進の民意は県政に1割に満たない影響しかない、ということになります。

おそらく、他県でも大差ないのではないのか。
その候補者が脱原発を最優先課題にあげたとしても、候補者自身に政治家としての魅力がなければ有権者は投票しないでしょうが、しかしこの結果に愕然としました。
(ちなみに僕の住む選挙区は無投票当選。これもどうかと思いますが。加えて史上最低の投票率49.02%でした)

ネット上(主にツィッターとmixi)でもやはり驚きの感想が多かったように感じましたが、どうやらネットで自主的に情報を集めようとする人たちと、既存マスメディアからの情報を主とする人たちとの間の温度差がかなりあるようです。

今回の原発事故で、これまであまり関心のなかった人たちも「反原発」を叫ぶようになり、それに対して批判的な意見もありますが、これは生物としての本能から「何かヤバいぞ」と直感しているからであり、当然の反応だと思います。
むしろ、それを感じられなくなっている日本人が僕が思っている以上に多いことに驚かされます。

そして12日、原子力安全保安院は福島第一原発事故をチェルノブイリ以来の「レベル7」の事態である、と発表しました。
これはまさしく、原発推進議員を当選させるための「後だしジャンケン」以外の何ものでもありません。枝野官房長官は3月末の時点でその可能性があることを認識していた、と記者会見で発言しています。

問題は、そんなに難しい話ではありません。
本当に大事なのは「命」であって、けっして「お金」や「経済性」ではない。
ここにも、口蹄疫事件でも感じた「違和感」が厳然としてあるのです。

いったい、私たちはどこに向かおうとしているのでしょうか。

コメント

  1. Broccobird より:

    エンデは拝金主義を戒めたかもしれませんが、厭金主義を奨めたわけではありません。

    違和感の原因は非常に簡単であり、誠に失礼ながらyasoichi氏が不勉強だからに過ぎません。前エントリー「願い続けること。」で自ら告白されたように恐怖に囚われたyasoichiさんが考えることをやめ、原発を「金欲、我欲の象徴」以上に理解を深めようとしないなら、それは極めて偏った見方にしか過ぎないのです。yasoichiさんのご指摘通りに豊かな暮らしを原発が支えてくれたのは事実ですが、戦後65年間日本が平和な暮らしを享受できたことにも、原発は大きく貢献しているのです(平和とは、命そのものですよね?)。

    私のBlogにも、yasoichiさんと同様に原発に反対している方が訪問され、原発問題は「お金は『自分の欲望』と同義であり、原発問題は『自分の欲望』と『人の命』を天秤にかけること」とコメントされました。そのコメントがついた記事の本文で私が主張したことは、

    > 今、全国にある原発が、反原発団体の言う通りに一斉に運転を取りやめたら、
    > 日本経済は壊滅的な打撃を受けるだろう。経済破壊による死者数は、年間
    > 何万人になるか想像もつかない。平成22年の日本の自殺者数およそ3万人
    > のうち、経済・生活問題での自殺は7000人を越えているのだから。

    でした。私は、「原発を一斉停止すれば、経済破綻によって無数の死者が生ずることを覚悟しなければなりませんが、それでもよろしいですか?」と彼に問いかけましたが、彼から回答はありませんでした。

    今の日本で原発が果たしている役割は、極めて多岐に渡ります。決して、特定の誰かの「お金儲け」のためだけに原発が存在しているのではないのです。yasoichiさんをはじめとする、これだけの反対意見、強力な反対運動を排して原発が存在するからには、それだけの理由があります。yasoichiさんはおそらく「国会議員と業界の癒着、利権のためだ」と短絡的に考えるでのしょうが、だったら世界中に大型風力発電設備を納入する三菱重工がありながら、なぜ日本国内で「原発利権」にも似た「風力利権」が存在しないのか?ここに回答を出す前に原発利権を糾弾するのは、大人として極めて無責任な態度なのです。

    私は20年来の強固な原発反対派ですが、勉強すれば勉強するほど、原発推進派と原発反対派の勉強量、主張の根拠の確からしさの格差に愕然としてきます。推進派が提示する理由には納得がゆくものが非常に多いのですが、残念ながら反対派の根拠は「怖い」以外にほとんどありません。

    なぜ原発が必要かについては、yasoichiさんの手できちんと勉強し、それをここで発表してください。原発は必要だと彼らが言う理由、そして反対派としてそれに対する正当な反論を加えてください。これは、各種書籍をきちんと読めば、極めて簡単なことです。インターネットでお手軽に調べるのではなく、原発を推進する方の書籍を買い求めて、しっかり読みこなすことが必要です。

    「原発利権」については、申し訳ありませんがyasoichiさんは決して考えが及ぶことはないでしょうから、私からコメントします。ここでは対象となる政治家の心理を探りますから、yasoichiさんの「原発=悪」という先入観を排してくださいね。

    とある政治家が、「いくら国民が反対しようとも、国内情勢、世界情勢、あらゆる事情を鑑みて、原発は絶対に必要だ」と認識するに至ったとします。しかし、yasoichiさん同様、強力な反対派が国内には多数存在しますし、建設予定地の住民の積極的な協力は得にくいのです。

    いくら原発推進が国民の平和で幸福な生活のために正しい道だとしても、当の国民の理解が得られないなら、民主主義の範囲で豪腕をもってねじ伏せるしかない。となるとカネが要る。とても個人でそんな金は出せないから、カネの源は、原発企業からむしり取って調達するしかない。しかし、それをマスコミは面白おかしく「利権だ、癒着だ」と騒ぎたてる。

    日本国内に自然エネルギーが本当に有望であれば、日本には巨大風車を供給出来る三菱重工や石川島播磨などのしっかりした企業がありますから、日本中にどんどん風車が出来て、癒着企業・利権議員が続出するはずです。でも、そうはなっていない。それがなぜか?にしっかりと答を出さないと、モノを考えたことになりません。

    パラダイムシフトを唱えるのは結構なことです。しかし、それは性急に達成出来るものではありません。現在、まだ化石燃料や原子力を代替出来るほど自然エネルギーは育っていませんので、今すぐ化石燃料や原子力を放棄するなら、我々は江戸時代に戻らなくてはなりませんから、1億2000万人の人口を3000万人に減らさなくてはなりません。この急激な人口の変化を、何年でやるつもりでいらっしゃいますか?その計画を考えていないのならば、パラダイムシフトの掛け言葉は絵に描いた餅でしかなくなってしまいます。

    > 現代では健康保険や年金(場合によっては生命保険も!)に入っていないと
    > 心配な人が多いですが、そういうものがなかった時代でも日本人は平和に
    > 生きていました。全てが自己責任でした。

    江戸時代には、健康保険どころか事実上医療がありませんから、ほんとにささいな病気や怪我でどんどん人は死んで行きます。平均余命はわずかに30歳代です。飢饉の度に大量の死者を出し、そうでなくても「間引き」「姨捨」が行われていたことをお忘れでしょうか。yasoichiさんのような認識で、「文明を捨て、自然に帰れ」と主張されても、おそらく現代に生きる日本人の誰にも同意されないと思います。

    パラダイムシフトは、徐々にしか起こりません。yasoichiさんのような、自然派志向の方がじわじわ増える傍ら、人口の自然減や経済の衰退が同時に進行するという形になるでしょう。

    もし、そのシフトの速度を少しでも速めたいと願うのであれば、まずはyasoichiさんが周囲の皆に率先して太陽光発電システムを購入するべきです。「安くなったら買う」のではなく、「安くするために買う」のです(これが、資本主義社会におけるお金の動き方です)。たくさん売れれば、だんだん値段が下がって皆が買ってもいいなと思う値段になってきますので、確実に世界をyasoichiさんが望む方向に向かって動かせます。既に、一般家庭向け商品が広く販売されていますので、一例を示します。
    http://www.rakuten.ne.jp/gold/northpower/

    もうひとつ、自然派主義ながら原発を強く推奨する、ジェームズ・ラブロック氏の著作を挙げておきます。
    ・ガイアの復讐 ジェームズ・ラブロック 中央公論新社
    http://bookweb.kinokuniya.co.jp/guest/cgi-bin/wshosea.cgi?KEYWORD=%83%4B%83%43%83%41%82%CC%95%9C%8F%51
    この本の中では、原発に対する安全性について、チェルノブイリ事故跡地を例にとり、原発周辺に旺盛な植生の回復と動物の個体量の増加が起こっていることを指摘し、全く問題ないとしています。これは我々には理解しがたいかもしれませんが、巨視的な視点に立てば、理解可能です。自分を含む「個々の死」に囚われているとまったく理解不能ですが、「種族の繁栄」という観点に立てば、容易に理解出来ます。

    yasoichiさんは「時間泥棒」を恐れておられます。しかし、それよりも恐れるべきは、「思考を奪われること」です。恐怖は、確実に思考を奪います。私の提示した議題に対して、しっかりと考えた上での回答を求めます。

  2. yasoichi より:

    この記事にまったくふさわしいコメント、ありがとうございます。
    まさしく、私とあなたの世界観の違いが、今のこの世の縮図となって現れており面白いですね。

    様々な社会問題をいろいろな人と議論するとき、大きく二つのタイプに分けて考えると、その人と議論が成り立つのかそうでないのかがある程度分かります。

    「学ぶ」ということは、「世界とは一体なんなのか」「世界と自分はどう関わって行けばいいのか」「どういう価値観を持てば幸福になれるのか」ということを身につけること、です。そのことに異論はないですよね?
    今の日本の教育は、この辺りがまったく曖昧で、それも「国家/政府」による教育制度であるという性格上仕方のないことかもしれませんが、中学校以降はいわゆる「受験戦争」を中心に教師も生徒も親も社会も回っていると言えます。
    その過程で、この本来教育の重大な使命であるべき「学ぶ」ことがおろそかにされています。
    義務教育の中で「学べること」で「世界とは一体なんなのか」という理解、言い換えれば視点は限定的であり、個人的な経験から言えば教科書から読み取れること、親や教師から教えられることと実際の「世界」のギャップに苦しむことになります。
    もちろん、そういった苦しみを感じずに済む人たちもいるでしょう。

    簡単に言えば、学校で教えられる「世界」とは人間社会を中心に世界が回っており、長い時間を掛けて人間が確立して来た近代以降の法律や経済システム、科学的常識の上に私たちは暮らしている、ということです。
    これはもちろん間違いではありません。
    では、私の感じた「苦しみ」は何だったのでしょうか。

    受け身の教育から離れて、自主的に「学ぶ」ようになってくると世の中には様々な考えがあることに気付いてきます。学校教育や、マスコミで流れてくる情報だけが世界の本当の姿ではないことに気付いてきます。
    「世界」とは宇宙であり、その中に浮かぶ銀河であり、その中にある太陽系であり、太陽を中心に回っている地球であり、その中で生命活動をしている多種多様な生態系であり、その中の1種であるホモ・サピエンスであり、そして私たちは「社会」という一種のかごの中で生活しているのだ、という視点が浮かび上がってきます。
    もちろんそんなことは科学の常識であって、誰でも知っているとおっしゃるでしょう。
    ところが、このことを表面的に理解しているのと、「腑に落ちている」のとではまったく意味が違ってきます。
    (このことを直感的に理解している人や後天的に腑に落とす人の違いはあれど)

    かくして「人間社会が世界である」と考える人と「自然の中の人間」と考える人の思考システムの間には、高い壁あるいは溝が横たわることになります。
    後者があなたの言われる「自然派志向の人々」であり、特に若い人たちには徐々に増えて来ているようです。

    心というものは湖面に例えると分かりやすいかもしれません。
    波が高ければ高いほど、湖面に映る像はその真の姿を私たちに示してくれません。
    この波は、私たちの欲望や恐怖といった感情によって発生します。そしてその大きさは互いに比例しています。
    現実を見つめるためには、この波を静める必要があります。そうでなければ、永遠に世界の真実の姿は見えて来ないでしょう。
    これは私個人の経験から得られた、智慧です。
    (念のため断っておきますが、お金が悪いわけではないと同様に、欲望がそのまま悪であるという短絡的なことを言っているわけではありませんよ)

    情報が正しい姿で自分自身に伝わらなければ、幾ら高い知性を持っていたとしても時には間違った判断をしてしまうのではないでしょうか。
    私の考える「客観性」とは、そういうことです。

    いろいろ挙げて頂いた例には、ここでいちいち反論致しません。
    それらの事柄はググって頂ければ幾らでも転がっている情報ですし、そういった知識を共有できることがインターネットの最大の強みでしょう。
    紹介して頂いた情報には感謝致します。

    ひとつだけ。
    戦後の平和な社会を原発が支えて来た、かもしれませんが(既成事実として)それは何も原発でなくても良かったはずですよね。
    それと、平和と命とは同じではありません。

    ついでにもうひとつ。
    自然派主義と言われるラブロックの著書に関しては未読なので機会があれば読んでみることとして、手元にある「お金」崩壊 (集英社新書 437A)
    のまさしく『「使えない」原子力発電』という項の中でラブロックが引用されていました。「笑えないジョーク」としてですが。

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