お金の本質

前回は、現代の高度に発達した金融社会がどのように生まれてきたのか、それを宗教的な視点から見てきました。
そこで問題にされた「お金」とは実のところ何なのでしょうか。

私たちが生活をする上で買い物をする時、「お金」を使います。
地元の経営者のスーパーで食料を買う時、見慣れた知り合いの人から買い物をするわけですからそこには「信頼関係」があることと思います。
時には世間話をしながら、という光景もままあることでしょう。
九州の人が北海道に旅行したとして、お土産物屋さんで買い物をするとき、地元での買い物と同じように「お金」を使います。
そこではお店の人との会話もあるかもしれませんが、地元で感じられたような「信頼関係」があるわけではありません。
ではなぜ私たちは「安心して」買い物ができるのでしょうか?

ご存知のように、この「お金」は「日本銀行券及び補助通貨としての硬貨」です。
紙幣は日本銀行によって発行されます。
日本銀行券は法定通貨ですので、そのことによって私たちは無批判に「信用している」とも言えます。

しかし、「取引」というものをシンプルに考えた場合、そこにはお互いの「信頼」があることは間違いありません。
いやいや「信頼」してなくても場合によっては取引するよ、とおっしゃられる方も居るでしょうが、その場合当然「リスク」も抱え込むことが前提になります。
「信頼」があることでリスクを軽減している、とも言えますね。
僕が考える「取引」とはそういうものであり、「お金」とはその取引を通して互いの「信頼」を仲介するもの、つまり「コミュニケーションの道具」である、です。

では「日本銀行券」の信頼は、法的根拠以外になにがあるのでしょうか。
日本銀行総裁からもたらされるものでしょうか?それとも総理大臣?天皇?
残念ながら、僕はどなたとも個人的な面識はありません。

ここで、お金がどのように生まれてきたのかを振り返ってみましょう。

日銀券は、市中銀行を中心にさまざまな金融市場や多数の金融機関で構成する「金融システム」に供給され、そこを通じて私たちの社会経済に届きます。
そして「貸付」という形で「新しいお金」(ニューマネー)を私たちは使うことになります。これは政府や自治体であっても例外ではありません
その時すでにこれまでみてきたように「利子の問題」、つまり「増やして返す」義務を負ったことになります。

元金より金利の分だけ増えたお金(オールドマネー)が金融システムに滞りなく戻ってくると、それをまたニューマネーとして社会経済に出していくことで金融システムは自己維持を図ります。

一方で私たちは、金利を付けて返すことで、「借りた以上に返す」ことで経済を縮小させることになります。少なくとも返したのと同額を再貸付してもらわないと経済規模を維持できないことになります。「持続的な経済成長」を望むならば、金融システムが動かす「信用創造」機能をフル活用して、より大きな貸し付けを受け続けなければなりません。

こうして生まれる「資金循環」は「資金が増やして戻される」ことを前提にして成り立つシステムなのです。

日銀のような中央銀行を頂点とする金融秩序を「中央銀行システム」とすると、その起源は、約310年前のイギリス、イングランド銀行にあります。
こちらに詳しく解説してありますので、参考ください。
つまり、イングランド銀行はそもそも戦争のための英国債を引き受けるために設立されたのです。そしてその銀行券が市中に出回ることで、貨幣として流通を始めたのです。
この「中央銀行券」、社債などの通常の債券は、債券を発行する側(債務者)が利子を負担しますが、これに対し中央銀行券は債券を発行する側(中央銀行)が利子を得ることができるという、何とも不思議な構造になっています。

そして当時のイギリスの社会経済には、前回まで見てきたような宗教的動機を土台にした素地があったのです。
金匠たちが始めた「預金証券」です。こちらに詳しくあります。
イングランド銀行も当初は市中銀行のひとつに過ぎなかったのですが、1844年にはイングランドで唯一の発券銀行となり、イングランド銀行券が法貨となりました。
しかし、元々英国政府が(戦争のための)借金を申し込むところから生まれたわけですから、残るのはイングランド銀行への負債だけです。
つまり、イングランド銀行がお金を発行すればするだけ、社会の負債は同じだけ増えていく、ということになります。

そして長らく「紙幣」には「金」という後ろ盾がありました。それが「金本位制」です。
つまり、金との兌換を保証することでその国の金保有量が自ずと紙幣の発行限度を決めていたわけです。「金の希少性」が「お金」に制限を掛けていたわけです。
ところが紆余曲折あって、現在ではいわゆる「ニクソン・ショック」以降、国際金融は変動相場制へと移行し、世界中の通貨は完全なる「不換紙幣」となったのです。
(紆余曲折、が重要なのですがここで解説は省きます。詳しくは「お金」崩壊 (集英社新書 437A)

こうして金融システムは、「欲望を、お金の量に合わせる」経済から、「欲望に、お金の量を合わせる」ことができる経済へと変貌してきたのです。これはいかなる意味においても実体を伴わないバブル経済のことです。
シューマッハーが説いたように、資源は有限であるにも関わらず、お金は無限となってしまい、それは私たちの欲望が際限なく膨れ上がる、ということを意味します

「グローバリゼーション」とはそういうことなのです。

さらに青木秀和さんの『「お金」崩壊 (集英社新書 437A)』をみていくと、日本の郵政制度にも私たちが普段見落としている秘密があるようです。

こちらをご参考ください。
国民からお金を集め(郵貯・簡保・厚生年金)て、戦争と市場拡大に使う(=財政投融資)
郵貯・簡保の自然縮小と国家財政基盤の崩壊~郵政「民営化」幻想の勝利-不可避となった財政破綻~河宮信郎・青木秀和

つまり、もともとは私たちのお金を戦争に使うために郵便貯金、簡保、厚生年金として集められた、ということです。年金などは、当初から給付することを念頭に入れていなかった、というわけです。
なるほど、あれ程簡単に大量に記録が紛失するはずですね(笑えませんが)。
これら3種の神器は私たちの貴重な資産ですが、実は国にとっては税外の国庫収入というわけです。

そうすると、やはり私たちは「お金」の一体どこを「信用」すればいいのでしょうか。

ところで企業とは一体なんなのでしょうか。

私はグローバリゼーションを次のように定義する。つまり、私のグループ企業が望む時に望むところに自由に投資できる自由、そして、私のグループ企業が生産したいものを生産し、買いたいと思うところから買い、売りたいと思うところで売り、しかも労働法規や社会慣行による制御を可能な限り撤廃する。そういった自由を享受することである。
パーシー・バーネヴィック 元ABB社社長

僕には何とも乱暴に聞こえますが、現在、資本主義国家にある多くの企業は株式会社です。
株式会社とは、簡単に言えば株主から借金をし、利益(つまり利子)を創出し株主に還元するもの、という理解でいいでしょうか?
つまり会社の真の所有者は「株主」であり、経営者及び従業員は株主に最大限の利益をもたらす道具にしか過ぎない、ということです。

経営者の唯一の社会的責任は株主のために多額の金を儲けること、これが道徳的な義務だ。社会や環境上の目標を利益に優先する(道徳的に振舞おうとする)経営者は非道徳的だ。企業の社会的責任が容認されるのは、それが利益追求の方便である時のみで、偽善が収益に寄与すれば良く、道徳的善意も収益に繋がらなければ非道徳だ。
ミルトン・フリードマン

このことは企業にある「人格性」を持たせ、あたかも人のように際限のない欲望を追求しているように見えます。
そしてそこで働く経営者や従業員は、自分の「悪徳」を自覚することなく(それは企業が行っているため)、普段の仕事に励むことになります。
かくして個人の小さい生きる欲求から、企業の大きな欲望へ、地域の顔の見える連帯から、国際的な巨大な欲望へと変貌していくのです。

「お金」は私たちが生活する上で便利な道具であることは間違いありません。
しかしそれは「道具」にしか過ぎず、その「道具以上の意味」を私たちが勝手に勘違いしているに過ぎません。
私たちは、私たちの欲望の本質に気付き、「お金」や「経済」への対峙の仕方を改めて考えるべきではないでしょうか。

参考:日本人が知らない恐るべき真実 〜マネーがわかれば世界がわかる〜(晋遊舎新書 001)/安部芳裕

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