「日本はこれからどこへ行くのか」内田樹の研究室より

日本はこれからどこへ行くのか

世界史的スケールで見ると、世界は「縮小」プロセスに入っていると私は見ている。「縮小」と言ってもいいし、「定常化」と言ってもいいし、「単純再生産」と言ってもいい。「無限のイノベーションに駆動されて加速度的に変化し成長し続ける世界」というイメージはもう終わりに近づいている。別にそれが「悪いもの」だから終わるのではない。変化が加速し過ぎたせいで、ある時点で、その変化のスピードが生身の人間が耐えることのできる限界を超えてしまったからである。もうこれ以上はこの速さについてゆけないので人々は「ブレーキを踏む」という選択をすることになった。別に誰かが「そうしよう」と決めたわけでもないし、主導するような社会理論があったわけでもない。集団的な叡智が発動するときというのはそういうものである。相互に無関係なさまざまなプレイヤーが相互に無関係なエリアで同時多発的に同じ行動を取る。今起きているのはそれである。「変化を止めろ。変化の速度を落とせ」というのが全世界で起きているさまざまな現象に通底するメッセージである。

一体何が「縮小」しようとしているのでしょうか。
「再生産」「変化し成長し続ける」(と思われてきた)経済のことです。
そのことを私たちは、世界じゅうで誰に指事されるわけでもなく「無関係なエリアで同時多発的に同じ行動を取る」ようになってきた、内田さんは指摘されます。

こうして経済活動は限度なく加速化してきた。そしていま人々はそれに疲れ始めてきた。しつこいようだが、ことの良し悪しを言っているのではない。疲れたのに良いも悪いもない。そして、「ちょっと足を止めて、一息つかせて欲しい」という気分が全世界的に蔓延してきた。

内田さんは、経済のスピードに人間の身体が追いついていけなくなっている、と言います。
そして、いま世界中で身体が壊れ始めている。戦争で破壊され、放射性物質で破壊され、ブラック企業で破壊され、学校で破壊され、医療で破壊されている。」

成功した投資家や起業家の中は個人資産が天文学的数字に達している者がいるが、その金額は生身の人間の生理的欲求を満たすレベルをはるかに超える。日替わりで自家用ジェット機を乗り換えても、分刻みで上から下まで服を着替えても、毎食を三つ星シェフたちに作らせても、身体はそれを「愉しい」とはもう感じられない。けれども、彼らは「もう限度を超えて儲け過ぎたから、この辺で手じまいにして、貧者にトリクルダウンしよう」と思ったりはしない。限度というのは、身体にしかない。そして、グローバル資本主義のトッププレイヤーたちはもう身体を持っていない。

本来なら今よりもっと前のどこかの段階で、「私たちはずいぶんさまざまな変化をしてきたけれど、それはほんとうに必要なことだったのか、適切な選択だったのか、それについて立ち止まって総括をすべきではないか」という提案がなされるべきだったと思う。けれども、誰もそんなことを口にしなかったし、思いつきもしなかった。なぜか。理由は簡単である。メディアはそのような問いを思いつかないからだ。

私の住む宮崎県綾町は、高度成長期時代に、目先のお金ではなく森を守ったことで注目され、それを町興しにしてきたところです。
それは1960年代の半ば、世界ではレイチェル・カーソンの「沈黙の春」が海外でベストセラーになって間もない頃です。

環境問題とは、実は経済問題です。
何も近年始まったことではありません。古代においては、メソポタミア文明期に大規模な伐採が行われ現在では絶滅も危惧されているレバノン杉。
あるいはソロー「森の生活」では、19世紀の半ば(日本では江戸末期)のアメリカでの大陸横断鉄道の建設が「暴力的」であると書かれています。
人類は、経済を発展させる、文明を発展させることの代償として、環境を破壊し続けています。そのことに、古今の賢人達は気付き警鐘を鳴らしてきました。
しかしながら、現在に至るまでそれは止まることを知りません。
原発事故が起こってもなお、再稼働に向けて動いていることがその典型的な例です。
それらは全て「経済を成長させる」ために行われています。


現代において、経済を成長させることは即ち「お金を増やすこと」を意味します。いや、既にそれは「単なる数字」にしか過ぎません。

ただの数字を大きすることのほうが、私たちが生きていくために絶対に必要な「自然」を壊すことよりも優先順位が高い、というのが多くの人が”信じている”「現実」なのです。
「現実」とは、「きれいな水、きれいな空気、安心安全な食べ物」がなければ私たちは生きていくことができない、ということです。
私たちの想像力は、実際に痛い目に遭わないと分からないほど曇りきっているのでしょうか。

そして内田さんは私たちをそのようにした原因の一端はメディアにある、と言います。

メディアは構造的に「変化の是非を問う」ということができない。メディアにとってあらゆる変化は変化であるだけですでに善だからである。当然のことだが、メディアの頒布している唯一の商品は「ニューズ」である。「新しいもの」、それしかメディアが売ることのできる商品はない。「ニューズのない世界」にメディアは存在理由を持たない。「今日は特筆すべき何ごともありませんでした」というのは、生活者にとってはとても幸福なことであるが、メディアにとっては地獄である。だから、メディアは原理的に変化を求める。変化を嫌い、定常的に反復される制度文物があれば進んで手を突っ込んで「変化しろ」と急かし、場合によっては破壊しさえする。そして、メディアで働く人たちは、自分たちが「変化は善である」という定型的信憑に縛り付けられて、そこから身動きできなくなっているという事実に気づいていない

ここで思い出されるのは、アカデミー受賞作品「ボウリング・フォー・コロンバイン(マイケル・ムーア監督)」と、山本一力「早刷り岩次郎」です。

前者は、アメリカ人が銃を手放せないのは、隣人に対する恐怖をメディアによって植え付けられている為、であるが、メディア自身は大衆をことさら洗脳しようという自覚はなく「大衆がそれを望んでいるから」よりセンセーショナルなニュースを求めている、という現実を暴き出しました。
後者においては、”震災復興”の場で新しいアイデアで商売を始める江戸時代のメディアの姿が描かれています。それはニュースが「より早く」「より細かい」こと。大衆が何を求めているのかを正確に知ること、でした。
商売としては「全く正しい」のですが、その先に何が待っているのか。現代の硬直したメディアの姿をみると、深川の人情味溢れる一力節も、また違った感慨を持ちます。(ちなみに私は一力ファンであり、小説としてはとても面白く読ませいただきました)


お金は増やされるよう運命付けられ、メディアは世界が変化し続けることを要求しますが、逆に「安定していること」が求められるものがあります。それは教育、医療、司法、社会インフラ等です

だが、学校や医療や司法のような社会的共通資本の最優先課題は何よりもまず定常的であること、惰性的であることなのである。それが生身の人間の等身大の人生を安定的に保持するための装置だからである。そのような装置はそのつどの支配的な政治イデオロギーや消費動向や株価の高下や流行などに左右されてはならない。定常的・惰性的であること、急激には変化しないことが手柄であるような社会制度というものがこの世には存在するのである。政権交代するごとに変わる教育制度とか、景況が変わる毎に変わる医療制度とか、株価の高下で変わる司法判断とかいうものはあってはならない。

言われてみれば、当たり前のことです。
「市場原理」は常に変化するものです。だから株価は上がったり下がったりするのです。
教育や医療を、その市場原理に則って運営する、ということは「不安定な状態」が当たり前になる、ということを意味します。そんな社会でどうして私たちは安心して暮らしていけるでしょうか。
私たちの心に不安が増えれば、それは消費の冷え込み、お金を使うのではなく将来の不安の為に貯蓄に回すことを意味します。その結果、景気は落ち込むのです。
景気が冷え込めば、市場原理にさらされた学校や病院は、当然経営に困ることになります。授業料や医療費の値上げをせざるを得ないでしょう。
また、それらの機関の統廃合も進み、地方であればあるほど、学校や病院が消えていくことになります。

だから、人間が集団的に生きるために安定的に管理運営されていなければならない制度は複雑系に委ねてはならならないのである。
政治イデオロギーや消費欲望は高速かつランダムに変化する。それが「持ち味」なのだから、「やめろ」と言っても始まらない。でも、社会的共通資本をイデオロギーや消費欲望の動きにリンクさせることは集団的な自殺に等しい。変化してよいものと変化してはいけないものを切り分けねばならない。「変化してはいけないものには手を着けない」という当たり前のことを常識に登録しなければならない。

生身の人間が自然環境・社会環境との間でなしうるのは「折り合いをつける」ことまでであって、それ以上のことは求めてはならない
それくらいのことはわかっていいはずなのだが、それくらいのことさえわかっていない人間たちが現代世界では、政官財メディアの世界を仕切っている。彼らはつねに浮き足立っている。つねに何かに追い立てられている。「一刻の猶予もない」「バスに乗り遅れるな」というのが、彼らが強迫的に反復する定型句である。彼らは「浮き足立つ」とは、「状況の変化に絶えず適切に対応してこと」と同義だと信じているようだが、それは違う。彼らはただ「浮き足立つ」という不動の定型に居着いているに過ぎない

彼らは一体何に「浮き足立っている」のでしょうか。
それは「永遠に経済成長しなければならない」という呪いです。「お金は増え続けなければならない」という呪いです。その呪いが故に、「変化し続けなければならない」と信じ込んでしまうのです。

一方で内田さんは日本における大新聞の存在は、他の先進国と比較して「一億総中流の社会を実現した」と評価もしています。

一億読者が産経新聞から赤旗までの「どこか」に自分と共感できる社説を見出すことができ、それを「自分の意見」として述べることができた時代があった。結論が異なるにせよ、そこで言及される出来事や、頻用される名詞や、理非の吟味のロジックには一定の汎通性があった。この均質的な知的環境が戦後日本社会の文化的平等の実現に多いに資するものだったことについて、すべての新聞人はその歴史的貢献を誇る権利があると私は思う。

しかし現在、ニュースは新聞からネットで自分で集める時代になってきています。
それは一方的に与えられる時代から、己の才覚と嗅覚によって時代を読み解くことができる、いい時代になった。「という風に見えます」。

しかし内田さんはそこにある落とし穴を指摘します。

ネットでニュースを読む人たちは、「自分たちが読みたいと思っている記事」だけを選択することによって、「自分たちがそうあってほしいと思っている世界像」を自ら造形している。そのリスクに気づいている人もいるはずだが、もう止めようがない。
主観的に造形されたばらばらの世界像を人々が私的に分有する社会では、他者とのコミュニケーションはしだいに困難なものになってゆく。それはギリシャ神話の伝説の王が手に触れるものすべて黄金にする能力を授けられたために、渇き、飢え、ついには完全な孤独のうちに追いやられたさまに少し似ている。自分が選んだ快適な情報環境の中で人々は賑やかな孤独のうちに幽閉される。情報テクノロジーの発達とグローバルな展開が情報受信者たちの「部族化」をもたらすという逆説を前にして私は戸惑いを隠せない。
全国紙が消え、「コミュニケーションのプラットフォーム」が失われるというのは、巨大な「事件」である。なぜ、そのような「事件」の予兆がありありと感じられながら、メディアはその「事件」を報道しないでいられるのか、それをとどめるための手立てを講じずにいられるのか。いやしくも知性というものがあれば、この現実からは目を背けることができないはずである。私はこの自己点検能力の欠如のうちにメディアの深い頽廃を感じるのである。

人は、自分の世界でしか「世界を観ることができない」。それは知識の量だけではなく、情報が何を意味しているのかを理解すること、つまり知識の質においても、自分の尺度でしか周りを見ることができません。
それは内田さんも私もそうです。
だからこそ、その「自分の世界」をより深く、広くし続ける努力が必要なのです。
「変化を求めることが悪だ、みたいな言い方をしながらおかしな話だ」と思われるかもしれませんが、内なる世界においては、今の自分がいかに狭い、独りよがりな視野で物事や人を判断しているのか、を常に自覚しておくことは大切なことです。

日本的な大新聞の功罪には一長一短ある。大衆が主体性を持って情報を集められる時代にも、メリットとデメリットがある。
このことを私たちは肝に銘じておいたほうが良いようです。
「主観的に造形されたばらばらの世界像を人々が私的に分有する社会では、他者とのコミュニケーションはしだいに困難なものになってゆく」とは、自分と同じ趣味や意見を持つ実際に会ったことのない人たちとバーチャルな繋がりを持ち、かつそれが(顔の見える)実際の人間関係よりも濃ゆいものになっている、ということです。
それはインターネットが自分の視野を広めるほうに働くのではなく、深まりはしても逆に更に狭められる、ということを意味します。

「経済は無限に成長する」というありえない前提を信じるふりをして経済記事を書き続けてきたせいで、グローバル資本主義はいつどういう仕方で終わるのか、社会はどのようなプロセスを辿って定常的なかたちに移行するのか、脱市場・脱貨幣というオルタナティブな経済活動とはどのようなものか、といった緊急性の高い問いに今の経済記事は一言も答えていない。そのような問いそのものを意識から追い払おうとしているからだろう。

たぶんこういうことなのだ。商品としての「ニューズ」を右から左に機械的に流しているうちに、彼らはある定型にあてはまる「変化」しか「変化」として認知できないようになったのである。「半年ごとにイノベーションを達成すること」を従業員に課したせいで経営危機に陥ったある大手家電メーカーのことを私は思い出す。イノベーションというのは、ふつうはそれまでのビジネスモデルを劇的に変えてしまうせいで、既存モデルの受益者たちがいきなり路頭に迷うような劇的変化のことを言う。「半年ごとのイノベーション」で収益増と株価高をめざした経営者が思い描いたのは「飼い慣らされたイノベーション」のことであって、その語の本来の意味での「イノベーション」ではない。だから、業界全体を地殻変動的に襲った「野生のイノベーション」には対応することができなかったのである。

「構造改革」「地方創生」という言葉も思い出されます。
改革を訴えながら、既存の路線をリアレンジしただけ、ということが誠に多い。創生を謳いながら、既存のものをさらに成長させるだけのことだけだったりする。

本当の意味での改革や創生とは、これまで存在しなかった、なし得なかったことを行う、ということではないでしょうか。
それは「前提を疑う」ことから始め、「前提を壊す、造り替える」ことではないでしょうか。

グローバル資本主義は「停止」局面を迎えた。何度も言うが、私はシステムの理非について述べているのではない。停まるべきときには停まった方がいい、と言っているだけである。「停めろというなら対案を出せ」と言われても、私にはそんなものはない。すべてのステイクホルダーが納得できる対案が出るまで戦い続けるという人たちはどちらかが(あるいは双方が)死ぬまで戦いを止めることができないだろう。
それが世界史的文脈における「停止要請」の実相である。いったん時計の針を止める。そして、「とりあえずこれについては合意できる」というところまで時計の針を戻す。そしてそこから「やり直す」しかない。
国内的にも私たちがするべきことは立ち止まることである。「成長だ、変化だ、イノベーションだ、リセットだ」と喚き散らしながら、いったいこれまで何を作り上げ、何を壊して来たのか、その一つ一つについて冷静な点検を行うべき時が来ている。

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